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えひめ雑誌

2001年


4月号 終刊号
増えてきた真剣勝負の場

1988年10月創刊号から書き始めたこのコーナーはえひめ雑誌終刊と共に今回で終わりになる。12年半という年月が流れた。「最初は何を書いたかなー?」と創刊号を開いてみた。その時のライブの様子がはっきりと思い浮かぶ。他のページにもつい目がいって、懐かしさに浸っている内に時間を忘れた。
 私がジャズを本格的にやり始めて7年くらい経っていた。ハコ(レギュラー)の仕事があり毎晩ジャズを演っていた。お酒を楽しみ、仲間と語り合うBGMでジャズを演奏していた。つまり、演奏が終わっても拍手がない。あったとしても演奏している方がびっくりするほどまれだった。聞いている人にじゃまにならないような演奏することはできても、聴いてくれる人を満足させる演奏ができるのか?。聞こえているが聴いていない状況での演奏は、演奏者にとって都合良くもあり演奏者をダメにもする、と思っていた。そんな頃だったから、毎月1回ジャズコンサートについて書くことは、ちょうど自分のジャズを見つめ直すことにもなった。いい機会を頂いたと思う。
 日本の経済状態が変わり、BGMで演奏する場面が少なくなった。雰囲気作りのために時間や空間を埋めるための演奏でなく、人を引き付ける、集める、楽しませる演奏が要求されるようになった。1回1回の演奏が真剣勝負という緊張感が生まれてきた。
 最近は、アマチュア・ジャズ・ミュージシャンの活動に目を見張るものがある。ジャズ(音楽全般かもしれない)において「アマチュア」というのは生業をジャズ(音楽)以外に持っている人、と私は思っている。演奏の仕事場がたくさんあった頃はプロになり易かった。だから純粋なアマチュアが少なかったのかもしれない。今はプロも元プロもプロを目指す若者も純粋アマチュアもいろいろな生き方の中で共にジャズを楽しみ切磋琢磨している。何かジャズ(音楽)が従来あるべき姿に戻りつつあるような気がしている。
 12年半の間、原稿の締切に遅れ遅れになりながらも暖かく見守って下さった編集室の皆様、ありがとうございました。そして何より、読者の皆様、ありがとうございました。 

創刊の頃

最近のライブ

愛媛のアマチュア・ジャズ・ミュージシャン集合


3月号
ニューヨーク・レポート 下

 ニューヨークに来たからには演奏を聴いてばかりじゃいられない。ジャムセッションに参加したい、と思っていた。
 実は、着いた日に今回のニューヨークでの初演はすませている。食事をした韓国料理店にピアノが置いてあった。一緒に行った友人が、「彼女はピアニストなんだけど、ピアノを弾いてもいいですか?」と店の人に聞いている。いくらニューヨークたって、なにも韓国料理店で弾かなくても・・・と一瞬思ったが、ここはニューヨーク!友人の心遣いに感謝して弾かせてもらった。これがニューヨーク初演奏だ。
 3日目にバードランドへ行った。ジャムセッションが始まる少し前の深夜0時過ぎに行くと、ベニー・グリーン(P)が演っていた。満杯のお客さんだった。「今入ると20ドル(1ドリンク付き)でバーのところで立ち見。セッションに参加するなら1時半においで」と言われ。ちなみにセッション参加料は5ドル。1時過ぎに再び行くと、今度はラッセル・マローン(G)グループが演っていた。ベニー・グリーンで終わりじゃなかったんだ、こんなことならさっさと入っておくんだった。20ドルをケチったことを少し後悔しながらライブを聴いた。セッションに参加するらしい楽器を持った人が、ドアの外にも私の周りにもたくさん待っていた。
 セッションに参加申込をして延々3時間待ち、やっと呼ばれたと思ったら歌伴で、しかもちゃんと覚えてない曲で調も変わっていて、何だかわからない内に終わっていた、という話を聞いたことがある。待つことは覚悟してきた。が、ライブが終わりセッションのハウスバンドの演奏が始まった時はすでに2時を回っていた。申込をし呼ばれるのを待った。幸い2番目に呼ばれた。ギター、アルトがいたので出来る曲をステージで相談する。「ストレート・ノー・チェイサー」に決まった。よしよし!Fのブルースだ。演奏が始まった。音使いやタッチが何だかいつもの自分と違う。いつもよりシャープで厚みがあるように感じた。ニューヨークの力かなぁ?
 翌日は、ニューヨークで活躍されているなら春子(P)さんをたずねて「おいかわ」という日本レストランへ行き、ここでも演奏させて頂いた。
 ニューヨーク!不思議な力がいっぱい入った空気を吸いに、年1回は訪れたい街だ。

韓国料理店

バードランドのジャムセッション

日本レストラン

2月号
ニューヨーク・レポート 上

 1月に6年ぶりにニューヨークへ行った。IAJE(ジャズ教育者国際会議)の年1回の協議会が、1月10日から4日間、ニューヨークのヒルトンホテルとシェラトンホテルで開かれ、いろいろなコンサートや講座があり、コンサートはかなりいいミュージシャンが出演する、というので参加してみることにした。
 初日、会場のヒルトンホテルの1Fロビーは楽器を持った人や受付を済ませて名札を付けた人達でごったがえしていた。3Fの受付のフロアへ行くと長い行列だ。IAJEの規模など、あまり知識がないまま参加したので、その人の多さにまず圧倒された。とにかく並んで順番を待っていると、この列が当日受付の列であることをスタッフの人が教えてくれた。私はインターネットで既に申込済みだったので、受付場所が違っていのだ。(教訓:何の行列であるかを必ず確認すべし)。
 4日間のプログラムを見ると何を聴いたらいいのやら悩んでしまうほど盛りだくさんだ。とりあえず初日のメインである「イブニング・コンサート」へ行った。
 3バンドの出演で、トップはウォーレス・ルーニー(Tp)・クインテットだった(アメリカでは複数のバンドが出演の場合、大物グループがトップバッターのようだ)。ヒルトンの一番広いボウルルーム満杯の人で席がなく、会場の脇に座り込んで聴いた。派手ではないが、60年代初めの力強いモダンジャズの音がしていた。ウォーレス・ルーニー(TP)が今から十数年前、デビューしたばかりの頃、サンパーク(松山市)で開催された岩浪洋三さんのプロデュースの「ジャズピクニック」で初めて聴いて以来だ。音も姿も貫禄が出たなあ。あの時は何か待遇が気に入らないとかですねてしまって・・・などと思い出しながら聴いた。ベースが際立っていた。最後のメンバー紹介で「やっぱり」と思った。バスター・ウィリアムズだった。
 2番目は高校生達のビッグバンドでゲストがウィントン・マルサリス(Tp)。マルサリスを生で見て聴けるだけでも儲けもん、くらいのつもりでいたらとんでもなくうまかった。腹が立ってくるほどうまい。高校生といっても、メンバーはエリントン高校生ジャズバンドのコンペティションの入賞者ばかりだそうだ。ナットク。
 最後はマリア・シュナイダー・オーケストラ。音は現代音楽に近い感じ。彼女の指揮の手の動きのひとつひとつで音が七色に変わる。バンドのメンバーは全員男性。彼女が、まるでトラやライオンを自在にあやつる美人猛獣使いのように見えた。
 「イブニング・コンサート」の後、他のライブへと移動したが、いつになったら入り口へたどりつけるかわからないほどの人また人。残念に思いながら初日は初日はここまでとした。
受け付け間違って並びました。

イブニング・コンサート会場

マリア・シュナイダー・オーケストラ


1月号
新世紀「オーハッピー・デイ!

 サンディ・ブレア(VO)との最初のギグは1994年の「名月ジャズライブ・アット・伊佐爾波神社」だった。黒人独特のソウルフルな歌い回しやノリ、彼女の広い音域の中で繰り広げられるアドリブのフレーズや言葉の自在さは観客を沸かせた。伸びやかな太い声が聴いている人を引きつけた。
 サンディは1980年に来日、以来日本とニュー・ヨークを行き来して、関西のホテルやジャズクラブで歌い、ジャズスクールの講師をしていた。伊佐爾波神社の翌年は阪神大震災チャリティコンサートで共演をし、その時ヴォーカルクリニックをしていただいた。久しぶりに連絡をしたら、昨年4月ニューヨークに戻ったと言う。大阪にいる間にもっと松山に来てもらえればよかったなあ、と残念に思っていると、12月に大阪のゴスペル・クワイヤーの指導やコンサートで大阪に行く予定あり、という連絡をもらった。よし!と大急ぎでサンディを迎えての「モンク・ジャズ・ナイトVOL3」を企画した。「モンク・ジャズ・ナイト」は私が年1回モンク(松山市)で行っているライブだ。毎回ゲストを迎えて行っている。サンディはまさにミレニアムにふさわしいゲストだ。
 2000年12月14日、年末にも関わらずたくさんの方が来てくださった。嬉しい。サンディは見事にお客さんにも、私達ミュージシャンの期待にも応えた。スタンダード・ナンバーやゴスペル・メドレーを一気に10曲歌った。日本ではとてもポピュラーな「ユード ・ビー・ソウ・ナイス・トゥ・カム・トゥ」は アメリカではあまり歌われない、という話はなかなか興味深かった。始まりはみんな圧倒されて固まっていたが、徐々にほぐれて、ライブを本当に楽しんで頂いたようだった。知っている曲は一緒に口ずさんだり、ノリの良い曲には手拍子したり、ゴスペルの曲ではサンディの歌の後について歌ったりと、演奏に参加して楽しんで下さった。ベースの吉岡さん、ドラムの堤さん、ギターの関家さんもめっちゃ楽しかった。まさに「オー、ハッピー・デイ!」
 21世紀がスタートした。「オー、ハッピー・デイ!」と思えるような毎日が送れたら素敵だろうな。




2000年

12月号
フライブルグのコーラスに感嘆

 11月2日、松山国際交流協会主催の「ジャズコーラス・フライブルク」のコンサートに出掛けた(松山大学カルフールホール)。
 松山の姉妹都市フライブルク市は人口は約20万人。松山は47万人だから半分より小さい。ドイツの南西部のフランスやスイスの国境に近いところにあり、「森とワインとゴシックの街」として知られている。そこからジャズコーラスがやって来る。
 ジャズコーラスはマンハッタン・トランスファーやミルス・ブラザーズのように、3人〜5人の編成がほとんどだ。「ジャズ・コーラス・フライブルク」は男性女性半分ずつ26人編成だった。こういうタイプのジャズコーラスのグループは初めてだ。これだけの人数のグループでプロ活動は難しいだろう。人数が多いと出演料や交通費だって半端じゃないだろうし、プロオーケストラの維持が難しいという話もよく聞く時代だ。きっと他に仕事を持ちながら音楽活動をしているセミプロの集団だろうな、などと勝手なことを思いながら開演を待った。
 「ただものではないぞ」。1曲聴いて思いを新たにした。26の人の声が合わさってひとつになったとき、ビーンとくるテンションサウンドになったときの響きの直撃が心地よかった。1曲1曲わくわくしながら聴いた。指揮者のベルトラント・グレーガの彼の指揮が楽しい。ダンスのような指揮に引き出されるのか、リズムが生き生きしてみずみずしい。 彼の編曲は素晴らしい。彼のジャズ感、美感、楽しいアイデアが詰め込まれている。アメリカジャズが持つブルージーさ、泥臭さが感じられない。そういうものを注意深く薄め去ったさわやかなサウンドだった。アメリカジャズがドイツ人というフィルターで濾過されたサウンドなのかもしれない。日本人のジャズはどうだろう。まだアメリカジャズに執着しているところがあるかもしれないな。
 後で関係者の方に「ジャズ・コーラス・フライブルク」について伺ったら、国際的に活躍しているプロのグループとのことだった。素晴らしいエンターテイメントを聴かせたバックのミュージシャンもフライブルク市に住むミュージシャンときいてビックリした。「そんなに大きい街ではないのに、ジャズが特別盛んなのですか?」に「大学が多いので」という返事だった。フライブルクに行ってみたくなった。ライブハウスとかたくさんあるのかな?

11月号
年齢感じさせぬ猪俣猛のドラム
 シュガー・ビレッジ(松山市)が10月8日に開催された。昨年に続いて2回目。昨年の5軒から今年は3軒増え、8軒になった。同じ通りにある8軒の店が各々ゲストを呼んで同時にライブをする。お客さんはチケットがあればどの店にも自由に出入りできる。
 私はモンクに出演した。メンバーは、広島の清水末寿(Ts)、松山の渡辺綱幸(Bs)、堤宏史(Dr)。清水さんのテナーサックスはぐいぐい引き寄せられる強い力がある。表現は自在で、楽器の中で人間の声に一番近いと言われるテナーサックスが、ある時は歌い、ささやき、ある時は叫ぶ。ジャズを演っていて面白いのは、共演者、場所、観客によって自分の演奏が変わるところだ。清水さんのテナーが私の新しいところを引き出してくれた気がした。
 ライブの合い間に他の店をのぞいてみたが、タイミングが悪く聴けなかった。残念。どの店もたくさんの人で溢れていた。
 同月14日は今治国際ホテル、15日はエスパス21(松山市)で猪俣猛音楽生活50周年コンサートが行われた。
 今治は、猪俣猛率いるフォースの演奏のほか、今治社会人ビッグバンド「スイングキッス」、私のトリオも出演しての音楽パーティー。オリジナル歌詞による「マイ・ウェイ」を御自身が歌うなど、和やかで楽しい50周年お祝いパティーだった。
 松山ではじっくり、フォースの演奏に浸った。できるだけ馴染みのある曲を素材にし、ご自分のエピソードを含めた曲の紹介や、途中で飽きさせないアドリブ構成。聴いている人が置いてきぼりになるようなジャズはダメ。ジャズメンはエンターテイナーでなければ、という猪俣さんの強い信念を感じた。体力や手足の動きは年と共に衰えるはずだが、猪俣さんのドラムは感じさせない。一層パワーアップしているとすら感じた。
 同月25日、東京お茶の水の「NARU」に出演した。メンバーは佐藤恭彦(Bs)、岩瀬立飛(Dr)、プラス青柳陽子(Vo)。NARUは若手有名ジャズメンが多く出演しているライブハウスだ。NARUに出演させてもらう機会に恵まれたことをとても嬉しく思っている。9月に初めて出演して2回目だ。緊張は融けたが、共演のメンバーのテクニックやアイデアの豊富さに対等に立ち向かえない自分の力不足を感じている。いつも演っている曲をこのメンバーで演ると、全く違った世界が開ける。その中で思いっ切り遊び、楽しめるようになりたいものだ。
シュガー・ビレッジ

猪俣猛コンサート(松山市)

お茶の水「NARU」

10月号
県内9グループ集い切磋琢磨
 9月10日、「ジャズ切磋琢磨」というコンサートをで企画し開催した(エスパス21)。「切磋琢磨」という言葉は、従来のジャズのイメージから少し遠いかもしれない。が、ジャズメンの音やアドリブへの終わりなき追求の様は、「切磋琢磨」にあてはまると思い馳せた。
 「ジャズを一所懸命している人たちだけで集まるコンサートです。チケットを売ってお客さんに来てもらうことはしません。お互いに聴き合う方式にします」と、参加を呼びかけたところ、県内の9グループが参加してくださった。参加グループは、クラッシュ・ジャズ・オーケストラ、ジャズ・パラダイス、龍太(Tp)セクステット、奥村健仁(P)トリオ、千之(Dr)クインテット、祝谷トランスファー、(以上松山市)、そして西条市からジャズ・ビーンズ、今治市からスイング・キッス、東予市から瀬戸内ジャズ学園。
 それぞれ個々に演奏活動をしているグループだが、一堂に会したのははじめてだ。県内のジャズミュージシャンの連携をはかる場が出来れば、という思いがかなえられた。大学生から大先輩まで、幅広い年齢層。ピアノトリオからビッグバンド、アカペラコーラスまでさまざまな演奏形態が集った。2つのビッグバンドの参加は、予想外のことでうれしかった。
 20分という短い時間で、グループの持ち味を出し、一心をこめた演奏をして下さった。ジャズ切磋琢磨の名にふさわしい内容のコンサートだったと思う。聴く人がみんなミュージシャンというのはなかなか演りづらいものだ。「緊張したー!」なんていう声も聞こえた。若手のグループが難しい曲をやりこなしているのを見て「こりゃ頑張らねば」と焦ったり、「いいとこ見せよう」として自滅したり。自己コントロールのトレーニングの場としても役立つとうれしい。
 コンサートの後、懇親会をし、最後にメンバーが入り交じってのジャムセッションをした。クラッシュとスイング・キッスの合同演奏による「A列車で行こう」でソロを回すなんて、なかなかない。3時間という長丁場のコンサートの後だったこともあり、セッションの時間は充分ではなかった。せっかく9グループもが集まるのだから、もっとじっくり時間を用意すればよかったかなあ、とちょっぴり思い残している。
ジャムセッション

記念写真

9月号
猪俣猛ドラムソロに涙
 8月18,19,20日の3日間、「今治ジャズタウン」が繰り広げられた。昨年しまなみ海道開通イベントのひとつとして誕生した「今治ジャズタウン」、今年は今治市主催で開催された。同市出身のミュージシャンの出演が多いのが特徴だ。村上俊二(P)、長野幸雄(P)、谷本久美子(Vo)、藤元忍(Tp)、それぞれ故郷で開かれるジャズフェティバルに胸躍らせての出演だったに違いない。
 皮切りは室屋町のかねと食堂でサンシップのライブ。明治30年から頑固に昔のままのスタイルで続けているかねと食堂に、彼らのうなる、叫ぶ、怒るジャズが合っていた。彼らには、あくまで自分たちのジャズを表現しようとする頑固な姿勢を感じる。2つの頑固が融合していい空間が創られていた。
 2日目は今治市公会堂で8グループが出演した。30分はジャズをするにはちょっと物足りない。少しずつ延びて時間が押すところだが、オンタイムで終了した。これは素晴らしい。リハーサルが長引いて、開演が15分ほど遅れたにもかかわらず、だ。実行委員の方々の適切な判断、強いリード、そして出演者の協力の気持ちが感じられた。結果、つい長くなりがちなアドリブが凝縮されていいものになった。
 最終日は、いよいよ「ザ・キング」の登場だ。私は司会のお手伝いを仰せつかり、舞台袖で聴いた。50年代、日本のジャズ黄金期にスターを経験したメンバーは、ダンディーで、音は美しく艶がある。長年の演奏経験から、とろけさせたり、引きつけたり、ワクワクさせる音のつぼを知り尽くしている人たちだ。リーダーの猪俣猛さん(Dr)が「聴いて下さっている皆さんには申し訳ないが、皆さんより演奏している私達の方が楽しんでいます」と話された通り、猪俣さんにはこのメンバーと共に演奏する喜びが溢れ輝いていた。
 ラストナンバーだった。猪俣さんがジャズに取りつかれることになった曲「シング・シング・シング」。そして、猪俣さんがカーネギーホールで演るという夢をずっと持ち続けた曲。この夢は5年前に果たされた。思いのこもった、力みなぎるドラムソロを聴いているうちに胸がジーンとしてきた。ドラムソロで泣けるなんて、今だかってあっただろうか?。ドラムソロが終わり全員の音がガッと入ってきた瞬間に、堰を切ったように涙が流れ落ちた。





8月号
今治から屋久島まで船内ライブ
 先月、豪華客船「ぱし ふぃっくびいなす」でジャズライブをする機会を得た。今治から屋久島への2泊3日のクルーズで「2デイズ・ライブ」だ。映画「タイタニック」や「海の上のピアニスト」のシーンを思い浮かべながら、胸ワクワクで乗り込んだ。「ぱし ふぃっく びいなす」は日本の外航客船。現在7隻あるうちの1隻で、98年に竣工された。まだ新しい船だ。中はまるで高級ホテル。ロビーには白いピアノが置いてあり、フィリピン人のピアニストが演奏していた。乗組員のほとんどはフィリピン人で、海外にいる気分。
 早速、ライブの会場へ。400人収容のメインラウンジはステージがあり、楽器もそろっている。広いダンスフロアがあって、そのグルリを取り囲むように客席がある。ゴージャスだ。
 ジャズの他にも、600人のお客さんが退屈しないよう、クルーズの夜はいろいろな催しで盛りだくさんだ。カジノ、カメラ教室、ワイン教室、英会話教室、押し花教室、映画、エステ等。これだけ選択肢があって、いったいどのくらいの人がジャズに来てくれるのかも興味があった。
 演奏のメンバーは、松山でいつも演っている気心の知れた渡辺綱幸(B)と久保哲也(Dr)。軽くリハーサルをして、本番を待った。船はすべるように瀬戸内海を走る。海に沈む夕日は格別だ。陽が沈み、ライブの時間が来た。400席のところに十数人のお客さんがいた。寂しい。やっぱりジャズはマイナーなんだなあ。しかも、ダンスフロアがあるので客席が遠い。でも、このゴージャスな空間でジャズのたっぷり演れるなんて滅多にないこと。お客さんが少ないことも気にせず、気がつくと夢中で演奏していた。夢中で演奏した理由がもうひとつある。豊後水道を抜ける辺りから船が大きく揺れ始めた。大きな船だから揺れないだろう、とタカをくくていたら、まっすぐに歩けないほど揺れた。集中していないと頭の中がふと空白になる。バランスが崩れて椅子から落ちそうになる。座って演奏するピアノとドラムはまだいいが、ベースの渡辺さんは足が浮くこと度々。大きな揺れが来ると、その度に3人が顔を見合わせた。
 計5回のライブ。決してお客さんは多くなかったが、一曲一曲に温かい拍手をくださった。踊ってくださったカップルもいた。ジャズのスイング(揺れ)を楽しんでくださったようだ。船の揺れのせいか、英会話教室などは集まりが今ひとつだったと聞いた。催し物としては、ジャズライブはよかった方かな?





7月号
アンコール!「アタゴ・ジャム」
 東予のアマチュア・ジャズ愛好者が「東予ジャズ研究会」という親睦団体を作っている。そして、年1回発表の場として「アタゴ・ジャズ・ライブ」を開く。6月10日、西条市総合文化会館小ホールで、その第7回のジャズ・ライブがあった。ゲストで呼んでいただいた。
 会場に着くと誰もいない。楽屋を覗いてみると、お弁当タイムだった。が、本番前の腹ごしらえの割にはビールがやたらと並んでいる。楽屋はすっかり打ち上げムードだ。みんな楽しそうだ。きっと東予ジャズ研究会の谷口典史会長(Tb)の少しとぼけたキャラクターがこういうムードを作るのだろうなー。当の本人はというと、毎回アンコールがないことを、しきりに悩んでいた。
 まずは、会長率いる「瀬戸内ジャズ学園バンド」。メンバーのほとんどが今治のアマチュア・バンド「スイング・キッス」のメンバーだ。「アドリブが自在にできるようになりたい」とトレーニング中の面々で、手探りだが、何かをやろうという気概を感じる。
 そして、「ジャズ・ビーンズ」。メンバーは藤田まさき(B)真由美(Pf)夫妻、花山志朗(Dr)、唄恭子(Vo)。西条のジャズシーンのリーダー的存在だ。唄恭子さんはフレーズが自由で、実にのびのび歌っていた。サービス過剰とも思える悩殺的衣装で、お客さんの耳だけではなく目も引きつけていた。
 最後は私も入り、ジャムセッションとなった。ラスト曲は谷口さんのオリジナル「玉川ブルース」ー「ルート66」のメドレー。さて、アンコールはあるのだろうか?谷口会長がそわそわしている。会場の拍手は鳴りやまず、アンコールの手拍子になった。やったー!。会長念願のアンコールがきた。
 ライブの時、いつも気になるのは「演っている方は楽しいが、聴き手が楽しんでいるかどうか」である、アタゴ・ジャムの「ジャズを楽しい音楽と感じてもらう」という目的が第7回にして達成されたことを、このアンコールが証明していた。



写真
アタゴジャムのホームページから拝借
m(_ _)m



6月号



5月号
うきうき気分、ノリノリ演奏
「新居浜・ジャズ・ビレッジ・2000・No6」が4月6日開催された。
 「ジャズ・パラダイス」はワゴン車に乗り込み、出演のため新居浜に向かった。その中に私もいた。ジャズ・パラは松山の「ジャズ・イン・グレッジ」に週1回集まっているグループで、ジャズを演ることを愛し楽しみとする者の集団だ。メンバーの顔ぶれは学生、医師、プロミュージシャンなど職種や年齢はさまざま。出掛けて行っての演奏にみんな胸を膨らませている。うきうき気分で車中は遠足バスのようだった。
 新居浜に着いた。「ジャズ・ビレッジ」はプロ、アマ含めて11バンドが5店に出演。自分たちの出番の前に「サンジェルマン・ウエスト」を覗くと、西条の「ジャズ・ビーンズ」が演っていた。お客さんは立ち見が出るほど一杯。演奏も熱気が漂っている。さきほどまでのうきうき気分に緊張が走る。ジャズ・パラの出演場所「サイド・ライン」へ行くと、西条の「アクアトライアングル」が演奏中だった。エレキ・ギター、エレキ・ベース、ドラムスのトリオでテンションの効いた短い演奏を繰り広げていた。
 さて、続いていよいよジャズ・パラの出番。と思ったら、お客さんよりメンバーの方が多い(みんなゲストバンドの「ランドル・コナーズ(As)の方に行っちゃったのかな)。でも演奏を進めていくうちに集まってきてくれた。中に外国人のグループがいて、我々の演奏に合わせて陽気に踊ったり一緒に歌ったりノリノリ。ジャズ・パラのモットーは「ジャズを演るのを愛し楽しむ」だ。私達の演奏の楽しさが彼らに伝わって、それを素直にあらわしてくれたのが嬉しかった。客席に松山「モンク」の関家さんの姿があった。コンガで飛び入り参加してくれた。ライブが一層盛り上がった。ジャズ・パラの後は、ジャズ・ビレッジの中心的存在、秦正義さん(Dr)率いる「イージー・HOG&中務敦彦(Ts)」の演奏。男らしい演奏に新居浜の大太鼓の勇壮さを感じた。
 午後11時過ぎ、すべてのライブが終わった。打ち上げ場所のサンジェルマンへ向かう途中、秦さんを始めスタッフの楽器などを片づける姿があった。普段ライブをやっていない店に協力をお願いしたり、楽器の調達など、ご苦労も多いことだろう。私達にこのようなジャズの交流の場所を提供して下さるジャズ・ビレッジ実行委員会の方々に敬意を表したい。





4月号



3月号
男性歌手「ヤマト」の今後に期待
 3年前、松山のライブスポット・グレッジのマスターからひとりの男性ヴォーカリストを紹介された。彼は22歳で、名前は「ヤマト」。アンディー・ウィリアムズやフランク・シナトラが好きという最近の若者には珍しいタイプだった。セッションしていた私達に「1曲歌わせてください」と「WHEN I FALL IN LOVE」の譜面を差し出した。ナット・キング・コールの名唱で有名なバラードだ。
 短いイントロの後、彼は歌い出した。彼の声はメロディーの美しさを改めて感じさせてくれるほど甘く、みんなをときめかせ、うっとりとさせた。羨ましいほど自然で、柔らかな声質を持っている。歌い方にクセがなく、メロディーを素直に歌って初々しい。週1回のグレッジのセッションに誘った。彼にはプロになりたいという目的があり、毎週やって来ては歌った。ところが歌う曲は毎回「WHEN I FALLーー」これ1曲。よほど気に入っているのか、この曲しか知らないのか?。「プロとしてまず50曲のレパートリーは最低必要、自分の譜面も要る」とアドバイスした。彼はレパートリーを徐々に増やし、譜面もそろえた。「WHEN I FALLーー」から3年。ヤマトのレパートリーが50曲を越えた。
 そして彼は、さる2月12日、「ミレニアム・ジャズ・ライブ(レパートリー50曲達成ライブ)」を開いた(ビー・レビュー=松山)。メロディーをひとつひとつ大切に歌う姿勢はずっと変わっていない。柔らかい声質に厚みを加えて芯のある声になった。レパートリーもバラードからテンポのあるスイングまで幅広い。ジャズヴォーカルならではのスキャットやフェイクも増えてきている。ヤマトにとってこのライブは、プロとしての名乗りを挙げたライブであり、次の50曲へのスタートでもあった。
 最近、ジャズ誌が若手男性ヴォーカリストをクローズアップした。男性より女性を、という風潮のあったジャズヴォーカル界は変わりつつあるのかもしれない。少なかった男性ヴォーカルの活動の場は増えていくのではないだろうか。ヤマトのこれからが楽しみだ。






2月号



1月号
今年も今治から目が離せない
 99年はしまなみ海道開通イベントのひとつ「今治ジャズタウン」で今治は沸いた。私も99年は今治のいろいろなライブやイベントに出演した。まさに今治で始まり今治で終わった1年だった。
 「愛媛県のジャズの状況を知りたい」ということで、県のイベント担当者にお会いしたのが97年6月。2年先の開通の際に今治でジャズのイベントの企画があることをこの時知った。今治にもジャズはあるが、際だって盛んという町でもない。「なぜ今治でジャズを?」という質問に「横浜や神戸は港町として有名で日本のジャズの発祥地でもある。今治も同じ港町なので」という簡単な説明が返ってきた。何はともあれ、県がジャズに目を向けてくれたことが嬉しかった。
 98年夏、県の担当者、イベント会社、地元のジャズ関係者の代表で会が開かれた。私も参加させていただいた。県側の「ジャズタウン」の説明に、地元は渋い反応だった。県の一方的な提案には素直に応じられない、という雰囲気だった。でもこのまま無関心を決め込んでいると、イベント会社お任せの出来合いののジャズフェスになってしまう。心配していたら、今治の社会人ビッグバンド「スイング・キッス」が、バンマスの平尾史郎さんを中心に「地元でまず火をつけよう」と立ち上がった。98年の大晦日、商店街でのカウントダウンライブの時だった。
 それからの「スイング・キッス」の活躍はめざましかった。99年4月18日FM愛媛主催の商店街ストリートライブにピックアップメンバーが参加したり、同月29日は第1回今治ジャズストリートを開催。6月13日は第2回を開催。JR今治駅構内、神戸洋酒倶楽部、ポンズ・カフェの3カ所で6バンドが参加。大いに盛り上がった。8月の「ジャズタウン」に向けて徐々に今治をジャズ色に染めていこうという、地道なこれらのイベントが功を奏してか、「ジャズタウン」では自然体で楽しんでいる姿をあちこちで見かけた。町の人たちが、目の前で演奏されている音楽を純粋に楽しんでいた。たまたまそれがジャズだっただけで・・・・・・。
 10月17日、架橋イベントは終わった。「このまま終わったのではすべてが幻になって消えてしまう」と感じた平尾さん達は「今治ジャズタウン・フォーエバー」を開催した(11月28日=愛らんど今治)。一連のイベントに出演したバンドが再び集まってのコンサートだ。会場にはイベントの度に来てくださった人、初めて生のジャズを体験する人、県のイベント担当者も来ていた。
 それぞれの演奏におくられる会場の熱い拍手や歓声は、主催者の「今治ジャズタウンで燃え上がった火をこれからも燃やし続けたい」という思いが伝わったかのようだった。今年も今治から目が離せない。