Smiley(´ー`) Tama の

軽やかな おじいさんに なりたい

 軽やかなおじいさんになるために
 ダイエット
 ジム
 ダンス
 早足散歩
 大型鏡とフローリン
 歯の治療
 禿とヘアースタイル
 服を買え揃える
 水虫が治った!
 禁煙
 格好良いおじさんであること(肉体面) その1
 格好良いおじさんであること(肉体面) その2
 調整ダイエット (リアルタイム報告)
 肩こりと早朝体操
 街区公園を巡る
 シミと皺
 ダイエット終了後の食生活
 肌や爪の手入れ
 女性の時代と女性作家
 女性との会話
 恋愛映画
 ダイエットを始めた色々な理由
 ダイエット後の幸せと不幸せ
「な〜んだ、ちっとも変わらないじゃない!!」って言わないで。おじさんであることからは替えられないのだから・・・・。
2003年11月 2004年11月

ダイエット

ダイエットを思い立ちました。2003年11月3日の健康診断を受けるために11月2日の夕食を絶食したのがきっかけで、健康診断が終わった翌3日も完全絶食にしました。4日の朝食からご飯を半膳にするなど、1日の総カロリーを1300`カロリーに決めました。当時はとてもハイな気分だったので、1ヶ月間は空腹を感じないで過ごしました。11月13日には社交ダンス教室にも飛び込みで行って、そのまま入会しています。勢いですね。11月2日に83`だった体重が12月初めには74`まで減っていました。1ヶ月で9`です。ダイエットってカンタ〜ン!!。それで益々勢いがつきました。ですが12月中旬から1月初旬は思い通りには体重は減りませんでした。70`の手前で足踏みです。忘年会や新年会などへの外食機会が多くて食事量の把握が困難でした。親族会や同窓会での「お食べ攻撃」には参りました。1月10日以降、外食を断ったのと、早足散歩(週に3回6`〜10`)やダンスの集中練習を加えて、1月中旬に70`を切り、そのままの勢いで2月28日には62`になってダイエットを終了しました。全て順調なダイエットのように書きましたが、実は2月末には「サラサラと髪の毛が抜ける」と言う栄養失調症状が発現して、4ヶ月20`減量の特急ダイエットは辞めざるを得なくもなっていたのです。ともかくも83`の体重が62`、ウエスト96pから82pへの減量成功です。ウエストはその後ジムやダンスで最細78pになりました。現在2004年11月3日に開始した禁煙のストレスから、体重65`弱・ウエスト80pになり、ちょいリバウンド傾向との格闘気分です。
私のダイエットは自己流で危険でした。実際ダイエット終盤には精力の衰えと激しい脱毛に晒されました。それでもどうにか仕事を続けながらの急激なダイエットが可能だった第一の理由は、私が自分の仕事を自社でする自営業なので、食生活と仕事のバランスを自分でコントロール出来たことが大きいと思います。外に働きに出るひとは自分のエネルギーを予定通りに使い、不足したら直ちに少量を追加する」と言うような細かいコントロールは難しいと思います。実際私も一度だけ低血糖に陥りました。今治でライブをしていたときです。演奏中にドンと意識が落ちていく感じになり、大急ぎで砂糖水を飲みました。思いがけないエネルギー消費があったときに直ちに補填できる環境が整っていないと急激なダイエットは危険です。第二に僕の精神状態がこの時期とてもハイ(躁状態)だったことも大きいと思います。病的ではなかったのですが、躁の気分に「思い通りに痩せている」と言う高揚感が加わって、とても前向きで夢見ながら生きているような4ヶ月間でした。この期間、酒もタバコも実に過量でした。タバコは1日60本超、酒は毎日ウイスキーを1/3空けていました。タバコで躁の精神状態を、酒でエネルギーを補給していたと考えて良いでしょう。ちなみに砂糖やアルコールは瞬時に燃焼するので(ほかの炭水化物を摂取していなければ)蓄積されません(太らないと言うこと)。この方法は危険で健康に最悪なので決してお奨めできませんが、だらだらと1年以上もかけてダイエットするのは私の性格(弱い意志)には向かなかったのも確かです。なので「50歳代でないと(今でないと)思い切ったダイエットは出来ないとの思い付き」も間違いではなかったと信じています。
ダイエット終了後のリバウンドはとても心配でした。ダイエット終了から間もなく1年になりますが、毎週かかさず体重計に乗っています。11月の禁煙以降2`増えましたが、また1`減らしてどうにか維持しています。どうにか1年間はリバウンドを乗り切ることが出来ました。口惜しいことに、いつも多少の空腹感があります。思いっきり食べても太らないためには、いま以上に有酸素運動を増やす必要があるようです。もうこれ以上の時間はありませんので、散歩やジムの時間を有酸素運動の時間に振りかえる必要があると思って思案中です。
2005年2月7日記

ジム

ダイエットが終わったときに困ったのは、余ってたるんだ皮膚です。二重顎だった顎の皮膚はダランと垂れてきますし、二段腹の皮膚は砂丘のような皺を形作ります。顔色は悪いし、あばら骨は飛び出しているし、細い手足は一層に貧弱です。「病人みたい」「貧相」「暗い感じ」「かえって歳とったみたい」
「太っていた方がよかった」。覚悟はしていましたが、予想された悪口雑言はほぼ全部聞きました。そうです、「ダイエットして痩せたときって、本人は痩せた痩せたって大満足しているけど、本当は病人みたいだし老け込んでしまって、すっごく格好悪いのよね!」ってしばしば聞きます。その通りだと思います。けれど、だからと言って太ったままが素敵なわけでもないのです。僕は「とりあえず痩せ終わってから回復や調整を図る」と決めました。
食事制限によるダイエットを終了したとき、お腹はシワシワになるほどに細くなりましたが、それでも下腹はまだボヨヨ〜ンと垂れて飛び出していました。腹筋運動したら途端に背中のスジを痛めて動けなくなりました。早足散歩を追加してみても下腹部のボヨヨ〜ンは小さくならず、顔ばかりがそげてきます。あばら骨が飛び出した胸は実に貧弱で、月並みな表現ですが”洗濯板そのもの”でした。「下腹を凹ませる努力より胸を大きくする努力をしよう!。そうすれば下腹は目立たなくなる」」。それがジム通いのきっかけでした。ダンスのときと同じく、見学に行ったときに即決で入会しました。余談ですが、私の入ったジムには女性会員がほとんどいません。筋肉鍛錬の機器が所狭しと並んでいるばかりで、プールもなければエアロビクスもなく、素敵な化粧室もありません。女性の憧れを誘う設備は何もないのです。
超貧弱体の僕にはこの環境が最適でした。女性大好き人間の僕はナイスバディーの女性がいたら絶対に気が散るのです。そして「エ〜かっこうしようとして無理をしたり、ごまかしたりする」に違いないのです。とにかくサイテーの筋力人間なので、出来るだけ気が散るような状況は避けたかったのです。僕の通っているジムはその点最適でした。誰一人として僕に声をかける人はいないし、僕からも親しくなりたいとも思わない。そんな実にオタクっぽいジムだったのです。
僕のジムのカリュキュラムはとっても慎重でした。53歳にして生まれて始めての肉体鍛錬と言っても良い所作でした。今までもちょっと体を鍛えようと思って、筋肉を痛めて諦めたり、ちょっとした思い付きがかえって仕事の大きな障害になったりと、肉体鍛錬は生涯挫折の連続だったからです。慎重に慎重に、決して筋肉を痛めないように、無理はしない挑戦はしない、急がないでゆっくりひとつひとつ確かめながら・・・・・・・。4月と5月は週3回通いましたが、1回の運動負荷量をとっても少なくしました。ほとんど「鍛えているは言えない」メニューでした。「40`負荷を15回」と指定してあっても「30`で8回」で留めて翌朝からの筋肉痛の程度を確かめました。本当に少しづつ負荷を大きくしました。6月になってようやく自分の体の反応をおおよそ掴めた感じを得て、負荷を増やしていきました。10月にははっきりとジムの効果(筋肉の太さや力強さ)を自覚できるようになって面白くなりました。
ジムでは「鍛えるためには週に3回、維持するためには週2回、最低で週1回」と指導されました。今年になってからどうしようかを迷っています。もっと鍛えてみたい、もっと逞しい体になってみたいとの希望はあるのですが、鍛えているとやはりいつも体が痛いのです。やはり体の痛さはストレスです。なによりも問題なのは時間です。立派な肉体を持っていることが僕の最も大切な目的ではないのです。ピアノも弾きたいのですが、週3回ジムに通っているとピアノの練習の時間はなかなかに難しいのです。「週に4日は残っているではないか!」と指摘されるかも知れませんが、週3回ジムに通うとやはり疲れます。翌日は休養したい気分です。週3回ジム通いをしているときは、月曜ジム、火曜ジャズバンド練習、水曜ジム、木曜ジャズバンド練習または職域会合、金曜飲み会、土曜ジム、日曜ピアノ練習と家族サービス。こんなスケジュールです。在宅している晩は日曜日のみ!!。厳しいでしょう。ピアノ練習や読書の時間がないのです。2005年1月9日に「おいでや!JAZZ STREET2005」の実行委員長の会務を遂行するために、12月と1月はジムを週1回にしました。ジムはあくまで筋力を維持するための運動です。筋肉は何かを成すために動かすことが目的だと私は思うのです。「見た目だけが軽やかなおじいさん」ではもうひとつツマンアイないですよね。ダンスも始めて見たいと思うのです。だからこれからは週1〜2回のジム通いにしようと思っています。


補追:ウエストは78〜80cmのままで減りませんが、胸囲は2004年4月の83cmから2005年6月の92cmまで9cm増!。胸から洗濯板の感じはなくなりました。
2005年2月8日記

ダンス

2003年11月13日、ダイエットを始めて間もなく、社交ダンス教室を尋ねました。紹介も何もない”飛び込み”です。その場で入会を決めました。なにしろダンス教室の戸を開けるのには勇気が必要でした。なんだか恥ずかしいのです。実は「シャル・ウィ・ダンス」と言うヒットした映画の監督が語っていました。中年男が夢中になってしている趣味の中で一番恥ずかしい趣味は何かを調べたら、「文句なしに社交ダンスたっだ!」。折角蛮勇を振り絞って教室に来たのに、「考えてみま〜ッス1」なんて言って、一旦そのまま帰ってしまったら、二度と来られないと思ったのです。入会金を払い、その場で靴も買いました。自分を追いつめたのですね。
格好いいおじいさんになるためにはスポーツは欠かせません。
ですが、私は運動オンチです。特に球技はいけません。ジョギングは嫌いです。しんどいだけで楽しみが分かりません。私はジャズピアノが好きであるように、表現することには興味があります(と思っています)。なので、「ダンスならば私にも出来るのではないか」がダンスを選んだ理由です。
社交ダンスを選んだのは、ジャズダンスとかモダンダンスは若い人が多くて(と言うかおじさんは一人も居ない)社交ダンス以上に敷居が高かった。なにしろウエスト96pですからね。ナイスバディーの男女の中に入っていく勇気は全くありませんでした。社交ダンスなら老人も多い(と言うか老人が圧倒的に多い)。加えて、私は女性好きです!!。
入会したダンス教室は競技ダンスに熱心に取り組む教室でした。競技を目標にした社交ダンス(ボール・ダンス)は10種目(10ダンス)あります。私はキューバン・ルンバから習い始めました。個人レッスンを選びました。基本のヴォークを3回習った後、基本ステップを順次覚えて、4ヶ月目頃には約2分間の踊りの流れ(流転)を覚えました。社交ダンスの場合、男性はリードが必要なので女性の3倍以上時間がかかると聞いていました。私はずっと男性講師に習いました。厳しかったけどダンスの基本を習うには男性から学ぶ方が近道だと考えたのです。それは間違いではなかったと思うのですが、やはり挫折しました。なにぶんにも男性と踊るのは楽しくなかったのです。女性と踊るならば、自分の好きなタイプの女性と練習したい。それが私の我が儘な望みでしたが、当たり前のことですが、超初心者にはそれは叶わぬ希望でした。半年ほどでなんとなく飽きてきて止めてしまいました。最後の3ヶ月(5月〜8月)パートナーをより自由に選べて年齢層も若いサルサに浮気して、結局ダンスは沙汰やみになりました。パートナーを必要とするダンスは、出会いや社会習慣が定着していない当地では、若干の苦労が多いと感じました。
大きな収穫もありました。第一にダンスの練習は汗をかいて運動するので、ダイエットの効果を著しく促進してくれました。1月から3月までダンス練習を熱心にしている時期は順調に体重が減少しました。更に大きな利点は鏡を観る習慣がついたことです。当初「もっとお腹を引っこめて!」と言う講師の一言は応えました。精一杯お腹を引っこめていたからです。ダンスの練習のために縦1.8メートル、横1.6メートルの大型鏡を購入しました。これは別項で述べます。鏡を見て自分の不細工なスタイルを痛感し、毎日鏡を見続けることでダイエットに励むことが出来ました。第3に姿勢を正すことを覚えました。いくら痩せてみても姿勢が悪いと映えません。背筋を伸ばして歩くことを覚えました。ダンスは7ヶ月で挫折しましたが、多くの大切なことを学ぶことが出来ました。今年は一人で出来るジャズダンスやストリートダンスを習ってみようと企んでいます。
2005年2月9日記

早足散歩

2003年9月「健康には歩くのが一番だよ」。
ご一緒したテーブルの50台・60台の仲間全員が口を揃えます。
「退屈ではないですか?」。
「春秋は無条件に心地よい。夏は汗が、冬はジャンパーの下でぬくもる体が、心地良いんだよ」
さらに話を進めていくうちに、「初心者がたくさん歩くためには、帰りを考えずに歩けるところまで歩くのがコツだ!」と教えられました。出来るだけ遠くまで歩いて、帰りはタクシーや公共の交通機関などで戻るのです。帰路を意識すると、体力の限界を心配して安全な距離で引き返そうとする。そうするとなかなか距離が伸びないし、いつも余裕を残した散歩になる。また、新しい道を開拓するのも躊躇する。帰路を意識せずに、思いついた道をどんどん歩いて,、疲れはてた限界地点からタクシーで帰るのです。早速、試してみました。最初は1時間でフラフラに疲れました。でも、「帰りを意識しないと言うこと」は「帰り着かないかも知れないと言う不安」からの解放であることを知りました。また、「何処まで行かなければならないと言う距離の制約がなくなるのだ」とも知りました。不思議なもので、帰りの心配がなくなり、何処まで行かなければならないと言う義務感がなくなると、周りの景色が良く見えます。散歩がとても楽しくなりました。それで色々な道順を試してみました。ずいぶんとたくさんの道を歩きましたが、2ヶ月ほどしたら道順も目的場所もほぼ一定になりました。色々な道を経験すると、自ずと安全性の高い道、楽しい道を覚えて選びます。目標になる目的地も決まってきます。さらには当初は軽い気持ちだった散歩を”ダイエットのためのヴォーキング”として真剣に取り組み始めた2003年1月以降はひたすら歩くことのほうが大切になりました。道を探していては距離を稼げないのです。「歩き慣れた道をどんどん歩く」。そんな”歩き”になりました。
 歩き始めて1ヶ月ほどの頃、1時間歩いた後で踵が痛くなりました。その後3日間痛み、次の散歩は歩き始めて直ぐに痛みが出ました。友人に相談したら、「ヴォーキング用の靴を履いているか」と尋ねられました。運動靴を使ってはいましたが、「ハイテク運動靴とローテク運動靴がある」と教えられました。ハイテク運動靴は「歩くため、脚の保護のために現在の技術の粋を集めて創られた運動靴」で、「昔ながらの革と布の手法で創られたローテク運動靴」はお洒落が主な目的。早速、ハイテク運動靴を購入。安売りで、たった3000円!。なのに、それで履いた瞬間から体が自然と前に進んでいくような素晴らしい快感を得ました。素晴らしい。嬉しかった。それから週に2日、1時間ヴォーク、慣れてからは往復で2時間のヴォークを楽しみました。このヴォーキングをエネルギー消費運動の基本に据えて、有酸素運動のダンスとの2本柱にして、1月以降のダイエットを急速に進めることができたと思っています。
ヴォーキングはダイエット終了後も週1〜2日は1時間〜2時間のヴォーキングを楽しんでいます。ダイエットのときのような悲壮感は全くなく大きな楽しみのひとつです。松山の冬は暖かいので、ジャンパーを羽織れば寒いのは平気です。暑いのはイヤですが、夏の早朝は最高に気持ちがよいです。歩けば肌で目で耳で季節を楽しめます。生きている喜びを実感出来ます。「軽やかなおじいさん」。そうなのです。歳をとると季節感が生きる喜びを深めてくれます。それが良く分かるのです。ダイエットのために始めたヴォーキングですが、それは散歩と名前を変えて私の人生に新しい喜びを与えてくれたと感じています。
2005年4月9日記

大型鏡とフローリン

2004年2月。ダイエットも終了が近くなり、社交ダンスはだいぶん慣れて熱が入っていました。ダンスの練習はフローリンが張ってある居間で30p幅の全身鏡を見ながら練習していたのですが、妻がテレビ鑑賞をしていると煩がられました。ソファーや家具が邪魔になります。30p幅の鏡では少し大きく動くとはみ出してしまいます。ダンス練習を自在にできる自由な空間が欲しいです。
ピアノを置いている応接間の床は絨毯でした。ピアノの下は絨毯の方が音響のために良いと思ったからです。これをフローリンに替えることにしました。ピアノの下の絨毯は残して、床の半分をフローリンに張り替えました。これで3.6b×3.6bのフローリンの空間が出来ました。上級者だと大きく速く動きますが、初心者の基礎ステップの練習ではさほど大きくは移動しません(出来ません)。初心者の社交ダンス練習には充分な広さを確保できました。
 壁紙も取り替えて蛍光灯も明るくしました。そして仕上げは横150p、縦180pの大型鏡です。大型鏡をネットで探しましたが、キャスター付きで移動できる30p幅以上の全身鏡は見つかりません。ずいぶん探したのですが”ない”のです。据え置き型や取り付け型だけです。しばらくして「危険防止のためなのだ」と気付きました。鏡は重いのです。倒れれば割れます。大型鏡は安全面を配慮して「原則的に固定するべき」なのです。でも、私のピアノ部屋には大きな鏡を貼り付ける壁面がありません。特注を考えて地元の建具屋さんに頼んでみました。金額にして60万。う〜ん、高価。重さが70`あるので転倒を防ぐためにキャスターの脚は前後に120pは必要とのこと。大きすぎる。建具屋さんも「おやめなさい。危ないですよ」と請け合う風情がありません。諦めかけた頃に「軽い・割れない・よく写る」をキャッチフレーズにした鏡をネットで見つけました。本当の鏡ではなく、高密度の透明ポリエステルフィルムなのだそうです。重量は鏡の1/6。割れないので安全らしく、キャスター式をネット販売していました。18万円程度でした。即決!!。
届きました。大きいです。思いのほか大きいです。自分が小さく思えます。高さ(丈)180pは何のためかちょっと疑問です。姿見するためだったら、丈は150pで充分なようです。幅150pだとダンスで動くとはみ出しそうですが、大丈夫。1メートル離れれば2メートル以上の範囲をカバーできます。2メートル離れれば部屋の端から端まで見渡せます。けっこう大きな鏡でした。鏡が来て自分の姿を見る時間・機会が格段に増えました。意図しなくてもナルシストでなくとも「ピアノ部屋に入ればイヤでも自分の全身が目に入る」のです。自分の姿を毎日確かめること。ダンス練習のために用意したフローリンと大型鏡でしたが、予想外の効用がありました。二日酔いの自分は、顔が紅く浮腫んでいるだけでなく、背を丸め肩が下がった情けない姿です。楽しい気分のときは表情が豊かで体も大きく見えます。鏡を観ながら姿勢を正す習性や表情をつくる練習もするようになりました。また服を合わせるときには絶対に便利です。髪型から足先・靴までを一望できることは衣装合わせには必須だと思います。部屋が出来て2ヶ月後にはダンスを辞めてしまいましたが、ダイエット以後のリバウンド防止やより良い体型や姿勢・仕草の確認に大いに役立てています。
2005年4月30記

歯の治療

急速なダイエットをすると口臭がすることは知っていました。体脂肪が燃焼するときに臭うのだそうです。ダイエット終盤の2月は気にしていました。なにしろ口臭は自分自身には分からないことが多いからです。ダイエット終了時には頭髪の激しい脱毛に襲われましたが、同時に歯が浮いたような感じになりました。歯槽膿漏ではなかったのですが、歯間が開いた感じです。栄養失調状態で歯槽が痩せたのだと思います。案の定3月下旬に歯痛に襲われました。じっと鏡の中の自分を見ました。ダイエット終了直後は痩せて細くなった自分の顔が嬉しくて堪りませんでした。しかし冷静になってじっと見つめた自分の顔は、頬がこけ、首の皮がたるみ、目が落ちくぼんだ醜い50男の顔でした。こけた頬で大口を開けて笑うと汚い歯列と歯茎が目立つことに気付きました。隙間だらけの歯列、反っ歯の前歯、ぎらりと光る銀歯、黒黄色に変色した歯色。見た人を不快にさせる容貌です。痛む歯を我慢しながら「これはいけない。よし!、ダイエットを成功させたこの機会に歯も全部一新しよう」と決心しました。なにしろこの汚い口ではとうてい格好良いおじいさんにはなれません。歯科医に相談しました。残念なことに右下の4番目の歯はもう歯根を失っていてインプラント(移植)しか方法がないとのことにて今回は見合わすことにしましたが、残りの歯は全部を治療した上でセラミックで補填することにしました。2004年4月14日でした。それから毎週1回、欠かさず通い続けて、2005年4月末にようやく終了しました。実に永い永い1年間の治療でした。「見栄えは!」と言うと、自分で言うのもなんですが、治療前の写真と見比べれば断然に素敵です。なにしろ笑顔が違います。反っ歯がなくなり、色が揃い、不気味に光る銀歯がありません。清潔です。見た目だけではありません。痛む歯が全くない、痛む予感もないのは実に爽快です。口臭を心配することもありません。「接吻、いつでも来い!」って強気です。現実には接吻のチャンスはやって来なくても、心は軽やかなおじいさんに一歩も二歩も近づいた気分です。嬉しいです。一方で「歯が綺麗になったね」と言ってくれたひとがひとりも居なかったのはちょっと残念でした。「54歳のおじさんの容貌に関心のあるひとは居ないのだ」とちょっとスネましたが仕方ありません。54歳オジサンは自己満足だけで充分です。
結構費用もかかりましたし、なにしろ時間がかかりました。失った歯は戻りません。ダイエット前のままに歯に無頓着でいたら、私は総入れ歯のおじいさんになっていたに違いありません。素敵なおじいさんは総入れ歯ではありません。素敵なおじいさんになる資格を守るためにも、今回治療した歯を大切にして綺麗な歯を守っていきたいと思います。
2005年5月1記

禿とヘアースタイル

ダイエットの終盤に頭髪が急激に抜け始めました。3ヶ月目に入った頃に毛髪が細くなった印象をもちました。頭髪を触った感じでは腰が弱いって感じでした。4ヶ月目の終わりに桜の花が散るようにサラサラと髪の毛が落ちてきたときは慌てました。。鏡を見ると前額部は大きく後退し、元々薄かった頭頂部の毛は消失していました。予想はしていたけど現実になってみると恐ろしいです。「男がダイエッをすると禿げる」とは聞いていたので、ダイエット開始当初は育毛剤を使っていたのですが、途中で油断して忘れました。続けていても同じだったかも知れません。終盤はかなり激しい脱毛でした。ダイエットをやめてもその後1ヶ月間はかなり激しく続き、前額部は大きく後退し頭頂部は禿を隠しようがなくなりました。ダイエット前も頭頂部はだいぶん薄くなっていたのですが、見苦しいほどではない(と自分では思っていた)ので、髪型は10年間ずっと同じで、7pくらいの長さにカットして、左から7−3分けていました。ごく普通のおじさんの髪型です。前額部の毛がなくなるとこの7−3分けが苦しいのです。ちょうど分ける部分の髪の毛がないので、7−3分けを強行すると大きな空白地帯が出来てしまいます。さらに頭頂部には横から渡ってきた数少ない毛髪が露わになった頭皮を隙間の大きい櫛のように被って、実に貧弱で情けないのです。「禿は隠せば見苦しい」と知っていましたが、さてそれならばどうする。偶然4月に「禿に関する講習会」がありました。勇躍、参加してしっかり聞いてきました。医学的治療的なことは別として、とりあえず大きな収穫がありました。髪の毛を4pくらいに短く刈るのです。そして一定方向に分けないで、ムースを使ってちりぢりと勝手自然な感じに仕上げるのです。素晴らしいことに「このほうが断然に格好良いのだ」との証明が終わっていました。なにしろ私の友人達がモデルになって、カット前とカット後とを比較したスライドが提出されたのです。「これですね!」。僕は早速に紹介してもらった美容院に行きました。女性客がほとんどの美容院に禿のおじさんが入るには少しばかりの勇気は必要でした。けれど勇気の成果は明白。カットした当日、僕を見た友人達はひとしきり笑ったあと、「それはいいわ!」と誉めてくれたのです。「若返った」とも、「格好いい」とも、「現代的」とも、色々に誉め励ましてくれました。この短いカットがダイエット副作用の禿への対応策になりました。
その後、激しい禿の進行は止まりましたが回復はしませんでした。格好いいおじいさんになりたくてダイエットをしたのに”禿げになった”のではいささか無念です。2005年4月で歯の治療が終わったので、次は禿の治療に取りかかってみようかとも考えています。けれど遺伝性要素も高い禿は
私の場合はいずれ避けられません。禿を隠さないで禿を格好良く見せること。たいへんに難しいですが、これが私に架せられたテーマのようです。幸い痩せて小顔になったら帽子が似合うようになりました。短髪になったのも帽子には有利です。決してハゲ隠しにならないように帽子も活用したいと思っています。最近は一層短くカットしてイガグリ頭に近い感じです。長い髪の毛より今の短い髪型の方が管理と整髪は手間とお金がかかるのですが、面倒がらずに、丁寧に禿頭を整えていきたいと思っています。
2005年5月1記

服を替え揃える

ダイエットを終了して以降、服の買い替えに奔走しました。なかなかの大事だったのです。
体重20`、ウエスト18pが減ると元の服で役に立つ服はほとんどなくなりました。まず下着がダメです。”ふんどしゆるい”の状態です。次ぎにYシャツ類が全滅です。手の長さは変わらないはずですが、首周りが43pから41pに減りました。首周りが2p減ると襟が落ちてきて喉仏が丸出しになるのです。実にだらしがないスタイルです。元来ブランド物の首周り43pのYシャツは身長170pの日本人的体格の私にはとてつもなく大きかったのです。肩幅51p、身幅120p、着丈82pです。身長180p〜185pの欧米人向けのサイズです。太っているときは、他に入るYシャツがないのだから仕方がない、どうせブサイクなのだから着られたらどうでも良い、等のヤケクソ的理由で着ていたのです。しかしダイエット後の体にはあまりにも大きくてみっともないのです。せめて首周りだけはサイズの合ったシャツに替えないとあまりにも不細工です。さて一口にYシャツと言っても色があります。白、グレー、ブルー、そして縞。フォーマルとカジュアル。素材感もいくつかは揃えないといけません。だからYシャツだけでも少なくとも10枚は買い替える必要があるのです。いまはまだ5枚程度の買い換えです。やはり気に入った物を選びたいので短期間に全てを買い換えるのは難しいです。気に入る物を探すのは結構大きなエネルギーが必要です。
そうです。服の買い替えは当初は嬉しくて嬉しくてたまらず、無我夢中でした。だって「ヒモとしか思えない!」と信じていたチューブみたいなパンツがスポンと入るのです。しかも着てみたらやはり格好良い。いままでは「このシリーズはフリーサイズでございます。」と言われても全然フリーでないとか、「お客様はこちらのおサイズになります」とかで買って帰った服はマネキンが着ていた服とは似てもにつかぬブサイクな形だとか、哀しく辛かったお洋服のお買い物が走馬燈のように次々と思い出されて、いまの幸せに打ち震えるのです。
楽しくたまらず服を買っている。そうです。確かにそうなのですが、喜んでばかりではいられなかったのも確かです。必要に迫られた切迫感もありました。たとえば礼服(葬式用)は夏用・冬用を買い揃えなければなりません。葬儀は予定をたてられないからです。冬物は買い替えました。でも夏物は上は昔からのダブダブを使い、下は似通った黒色のパンツで流用しようと算段しています。7月のバーゲンセールで賄おうと言う作戦です。それまでの間、出来れば葬儀がないことを願います。タキシードは7年前に割と良い物を買ったのです。パンツはウエスト89pです。昨冬にタキシードを着るべき機会があったのですが、買い換えはせず、パンツのウエストを詰めて出席しました。上着はブカブカ、パンツもわたりが太くてブサイクでしたが、まずは使用頻度が高いスーツなどの方を優先すべきだと考えて、タキシードの買い換えを見送りました。
現実的に着る物に困っている感じをご理解頂けるでしょうか。「10数年間で買い貯めた服が一瞬で消滅した」、そんな感じだったのです。どうにか役立つ物はとりあえず使えるように直しながら、使用頻度の高い物から順番に買い揃える、その作業なのです。最初に下着のシャツ・パンツを全てLLサイズからMサイズへ買い換えました。Tシャツ・ポロシャツ・Yシャツ、5枚づつで15枚、夏冬用で30枚です。ボトムスも夏冬各10本で20本。ジャケット類は高価なので、まだ全ては買い替えていませんが、それでも夏冬で10着を買い替えました。靴ですら革靴も運動靴も26.5pから25.5pへ履き替えです。そのほかベルト10本、ベスト、セーターなどの細々した物を加えると、100点を越える買い物でした。
デパートで買っていては時間的に間に合いませんし、気に入らなくても仕方なくその場にあるものを買ってしまって何度も後悔しました。それにデパートはやはり高い。昨年11月以降はネットのショッピングとオークションを活用して、手間と費用をずいぶんと倹約しました。もちろん「安物買いの銭失い」や「若すぎる洋服」を買ってしまった失敗は多々ありました。細身でも着られるからと言ってうっかり”ウンと細身のブランド”を買うと”若すぎて”似合わないのです。ハシャギすぎです。体型や顔と年齢との相関を見失った時期もありました。
昨日、懸案だった紺ブレを購入して、ようやく洋服買い替え作業が一段落しました。まだ水着とか半ズボンなんてものもありますが、まあ、なくてもさほどには困らないでしょう。コートや冬物のダーク・スーツは来春のバーゲンが狙いです。昨春からずいぶんと試行錯誤しましたが、ようやく一段落。これから本当にダイエットをしたご褒美のお洒落を楽しみたいと思います。そして1年間、服を買い替えるのに費やした大きなエネルギーを無駄にしないためにも、これからも弛まず体重維持を心がけたいと思います。
2005年5月11記

水虫が治っ

ダイエットしたら30年来の水虫が治った。友人の皮膚科医に言ってもまったく相手にされない。信じてくれない。でも、治ったんだ。確かに以前2回の皮膚科受診で「真菌は検出されなかった」ので、「それは水虫ではなく異汗性皮膚炎だ」ってことになるらしいのだけど、そんな学問的なことはいいのだ。とにかく足の指先は年中痒く、梅雨時になるとジクジクと湿ってきて、それはそれは汚ならしかった。爪も著しく変形して、小指の爪は3倍にもふやけてグラつき、親指のそれは巻爪となって皮膚に食い込んで痛んでいた。24歳のとき発症して、以来多少の寛解増悪はあるものの、完治することはなく30年間続いていた。その範囲は年々広くなるので、「この病気は将来寝たきりなどになって、免疫機能と清潔の維持が困難になったときに、死の原因の病になるな」と思っていた。それがである、ダイエットを始めて3ヶ月目に異変に気付いた。足の小指と薬指の間が乾き始めたのだ。赤くただれた皮膚の範囲はどんどん狭くなり乾燥してきて、痒みも軽くなった。特別な治療は何もしないのに、ダイエット開始後半年目、即ち5月頃にはほぼ足のただれは消失した。6月はみずむしの好発期である。こうなると絶対に再発は避けたい気持ちになった。毎日丁寧に水だけで足を洗浄し(石鹸や洗剤を使わないほうがよいとのこと)、カサkサに乾燥しないようにワゼリンを塗り、靴や靴下を頻回に取り替えて清潔を守った。この年の6月は再発しなかった。とは言え、長年の病気のために、この時点ではまだ爪は変形し膨化していたし、皮膚は黄土色に変色し硬く角化していた。そしてまだ、そこはかとなく痒かった。それから1年間常々足の清潔に心を配り、乾燥を防いだ。今年、水虫が治ってから2年目の6月を終えたが、再発はなかった。1年の間に爪は正常な形に復元し巻爪が治り、皮膚の色は正常になって皮膚全体に弾性と瑞瑞しさが戻ってきた。30年悩んできた痛さ痒さを感じることなく、裸足を人前に晒しても恥ずかしくなくなった。「ダイエットしたら水虫治った!」はまったく思いも寄らないダイエットの効果だったから、本当に嬉しく、いまも足を眺めては「ダイエットしてよかったな〜!」としみじみ感動している。
2005年8月14記

禁煙

ダイエット中は以前にも増してタバコの本数が増えました。1日60本から80本です。飢餓感と食事が出来ない手持ち無沙汰をタバコで紛らわしていたのです。タバコを吸うと不思議に飢餓感が軽くなりました。ダイエット・ハイの高揚感にタバコの薬物作用である幸福感が加わった効果だったのだと思います。ダイエットが終わってからも本数は減りませんでした。けれどダイエットが終わって以降、なお以上に「格好良いおじさん、ひいては軽やかなおじいさん」になるためには、タバコを吸い続けることは大きなマイナスであることが自覚されてきました。まず折角歯の治療を進めているのに歯の裏側はタバコのヤニで真っ黒です。磨いてもらっても3ヶ月で黒ずんできました。タバコを吸うままでは真っ白な歯を維持することは出来ません。第2に口臭と体臭です。「おやじは臭い!」と女子中学生が言うことが忌まわしき社会現象として話題になりました。この場合の「臭い!」は物理的な匂いとは別の意味も含んでいるのでしょうが、しかし実際に物理的に「臭いオヤジ」は存在するし、悲しいことですが年をとれば生物は「臭く」なるのです。その老に伴う匂いとタバコの匂いが混合した体臭や口臭を若い女性が好むでしょうか?。実はある程度は好まれる、ないしは許されることもあるのです。私たちの年代がタバコを吸い始めた頃は石原裕次郎が加えタバコで歩く姿が「格好いい!」と憧れの目で見られましたし、森繁久弥はいつもパイプを咥えていました。その時代においてはタバコの匂いは必ずしも嫌な匂いとだけ捉えられたのではなく、むしろ哀愁を滲ませる男の匂いとして歓迎された側面もあるのです。ですが人類3000年の嗜好行為である喫煙は、副煙流の有害の証拠と言う錦の御旗を得て以来、アメリカ的ヒステリズムとも思える容赦無用のタバコ禁止運動の大号令の元、世界中が禁煙の方向へ奔流となって向い、一切の抗弁も喫煙の自由も認めず、喫煙行為を精神的醜悪とまで言い切るようになってきました。僕には色々言い分はあったのですが、歴史を知らない若い女性たちにいちいち喫煙の人類史や有益性を語っても詮無いことですし、だいたい今の世界の禁煙への潮流は僕が生きている間にはもう変わりそうもないとカンネンしました。タバコを吸っている限り僕は若い女性たちに「格好よいおじいさんとは見なされそうにない」と覚悟したのです。そしてやはりタバコを吸う老人の有病率は高い。健康であることが軽やかなおじいさんであるための第一条件です。「タバコを止めよう」と思い立ちました。それでもなおかつ、35年も慣れ嗜んで来た嗜好です。止めるにはキッカケが必要でした。ダイエットを開始したのが2003年の11月3日でした。それからちょうど1年目の2004年11月3日を禁煙日と決めました。前日の11月2日には100本吸いました。11月3日の朝、灰皿を撤去し、ニコチンガムを机の上に置き、タバコを止めたことを宣言して禁煙が始まりました。禁煙を始めたと言っても何も新しいことを始めるわけではありません。タバコを吸わないだけです。退屈です。ニコチン・ガムやニコチンパッチはふんだんに使いました。ここで禁煙の方法を論じるつもりはありません。ダイエット期間中はとても楽しかったのですが、禁煙では何にも楽しさ・ワクワク感を味わえませんでした。ダイエット中は体重計に乗れば毎週体重が減っていくのを確認できる喜びがありました。鏡の中の自分がほっそりとしてくるのを目で確かめることが出来ました。いままで入らなかった服がスポンと入り、そしてスマートでお洒落な自分が鏡の中に写っていました。タバコを止めても何にも変化はありません。指標となる数字もどこからも得られません。「え〜、タバコやめたの。えらいわね〜。続けなくっちゃダメよ」。なんて褒められて舞い上がる52歳ではありません。「命が惜しくなったんでしょう」なんて言われた日には、もう我慢なりません。だいたい僕が禁煙したことに気付く人はいませんでした。要するに代わり映えしないのです。
けれど僕の口からタバコの匂いが消えたことは確かでした。ヤニ臭かった指も匂いません。服にもタバコの匂いは付いていません。タバコを吸う女性も「タバコの匂いがしない男を嫌う」と言うことはないようです。タバコが嫌いな女性から、タバコが理由で嫌われる無念はなくなりました。それがタバコを止めたご褒美です。うん、これはワリカシ自信になっているかもしれません。
タバコを止めて一番の心配は体重の増加・リバウンドでした。ジムの回数を増やし散歩を励行しました。何かに熱中することは禁煙にも役立ったので互いに良い作用でした。私の場合はタバコを止めたからといって食欲が亢進しなかったのは幸いでした。いまでもときおりタバコを吸いたくなります。タバコって素晴らしい嗜好品なのです。でも、もう流行らない。私が生きている残りの時代には、「タバコを吸ったほうが格好よい軽やかなおじいさんであると言われることにならないだろう」と信じて、タバコを止めたことは軽やかなおじいさんになる一助になったと思っています。
2005年8月16日記

格好良いおじさんであること(肉体面) その1

”格好良いおじさん”と”軽やかなおじさん”はかなり違うのだけれど、当初は「格好良いおじさん”になりたい」と思った。格好いいおじさんであることは"格好良い青年であること"より断然に難しいと思う。なぜならば、格好良いおじさん(その後のおじいさんは特に)であるために第一に求められるのは、”健康であること”。若いひとの場合には当たり前すぎるだろう”健康であること”がなにしろ大切なのだ。おじさんの有病率が若者に比べて高いのは致し方がない。しかし「糖尿病でね」とか「高血圧でね」とか「肩凝りがひどくてね」とか、若い女の前でグチグチグチグチ自分の不健康を披露するおじさんは、同年輩から見てもダサイ。自分の不健康を相手に語っても相手も楽しくないし、病気が治るわけでもない。同情を求めているのかもしれないが、身内ならばともかくも自分が魅力を感じている女性の前で病気の話をすることに意味があるのだろうか。ともかく僕は「おじさんは自分の病気を人前で語らないこと」を”格好良いおじさんの第一歩とすべきだ”と思うのだけれど、更に進んで「病気のないおじさんでいられればいっそうに格好いい」はずなのだ。僕の「格好良いおじいさんになりたい願望」はとりあえず「いま格好いいおじさんになること」に帰結して、散歩からダイエットへ向かう取り組みになったとのだと思う。
幸い僕は内臓疾患・ホルモン疾患・循環器疾患、成人病と呼ばれる疾患をまだ発病していない。タバコを50本吸い、食事管理を一切せず、毎日飲み歩き、運動は全くせず、慢性的な睡眠不足で仕事をする、そんな52歳の男が成人病を発病しなかったのは健康に生んでくれた母と不摂生を許しくれた神のおかげであるが、50歳を過ぎた頃からはいつ成人病を発症してもおかしくない条件だったと推察する。”おじいさんとは死が近づいたひと”と言う意味だ。死の前には必ず病が存在する。「ポコンと死にたい」と言うひとは多いが、それは「一瞬の病で死にたい」と言う意味であって、死の前には必ず病は存在する。また「ポコンと死ねるのであれば早死にしてもいい」と言う人も少ない。だから「格好良いおじいさんになりたい」との希望と用意は「80歳まで発病しない健康体でいて、瞬時の病気(破綻)で死ぬ人として工夫をしたい」ということになる。だけどそんなに都合良く自分の死に方は選べないので、とりあえず格好良いおじさんであるためには健康であることが第一に求められる。
さて論議は空転する。しかし”健康”だけを求めて生きるおじさんが格好良いとは思えない。健康は大切な条件ではあるが、それだけでは足りない。健康だけに拘るおじさんは格好が悪い。「健康のために何をしている。何を食べている」と言い募るおじさんはたくさんいるが素敵とは思えない。さして格好よくないおじさんががどんな健康状態であろうが、どんな健康法を試していようが、僕には興味がない。
でわ、格好良いおじさんであるためにはどうすればよいか。黙って黙々と自身の健康管理に努力すること。そして結果を伴うこと、即ち自分から言い出さなくても「ひとが格好良いおじさんだ!」と思うこと。元来軽薄な私は「ずいぶんと若返ったね。何かしてる?」とか尋ねられると、すぐに調子のって「いや、ダイエットしてね」などと語り継いでしまうが、そこは軽く留めておくのが節操というものだろう。苦労して格好良さを追求しているとついつい喋りたくなるが、そこは我慢。”黙っていても格好いいおじさん”でありたいのだから。
2005年6月6日記

格好良いおじさんであること(肉体面) その2

格好良いおじさんであることは具体的にはなかなかに凄まじい。「おじさんはダサイ」はまだ良い。おじさんは薄汚い。「おじさんは臭い」となるともうたまらない。哀しすぎる。しかし一方でおじさんである自分自身が自分を見るとき、その老いと老いに伴う汚さに愕然とする。いや、確かに僕は気付いた瞬間が何度かあったのだ。初めのうちは直ぐに忘れた。「鏡の光の具合だ」と思ったこともあった。しかし現実におじさんは汚い。「汚く臭くならないため」には若いときには気にもしなかったことを、ひとつひとつ解決したり補ったりしなければならない。
私の場合、まずは痩せねばならなかった。痩せたあとも食事制限も必要だ。食べたいだけ食べれば必ず太る。若いときは運動をして腹一杯食べればそれで格好良く存在し得た。でも54歳は少々の運動をしてエネルギーを費やしても、欲するだけ食べれば必ず太る。老化とは基礎代謝の減少だからだ。減った基礎代謝をエネルギー消費運動の増加で補おうと抗い続ければいつの日か、体を動かすだけで余暇の全てを費やすスポーツ・オタクか、スポーツをし過ぎて体を壊しすかの、いずれかに陥る。
禿げる。遺伝性の要素が大きくいかんといも為しがたい老化の一現象だ。禿げそのものの対策も巷に溢れているが、禿げている現実は如何とも為しがたい。禿げていても汚く見えないようにするためには散髪・染髪が欠かせない。禿げていないときは一ヶ月に一回で良かったが、禿げたら1ヶ月に2回・3回と必要になる。白髪も交じる。うっかり1ヶ月も経つとまだらとなった白髪が目立ち、禿げた部分とだらしなく伸びたごま塩の髪の毛とが相まって実に汚らしくみすぼらしい。
髪は禿げたのにおじさんの鼻毛はよく伸びる。毛根はどんどん前の方に進出してきて、鼻穴のすぐ出口にまで生え際が迫ってくる。だから2週間も油断していたら鼻毛がボヨ〜ンと出てくる。眉毛も妙に長く伸びる。白髪交じりだから余計に目立つ。顎鬚はいつの間にか首の中ごろまで生え際が広がり、うっかりするとそり忘れた長い毛が薄汚い。耳の穴の毛も密生してきて耳から溢れ出す。本人は耳の毛は見えないから気付かないけど、これがまた汚らしい
肌にはイボやシミがところかまわずたるみ黒く変色した皮膚の上に散らばる。目じりは垂れて眼窩は落ち窪み、口角は緩んで垂れ下がる。
なんとも老とは凄まじいもだ。その老に抵抗しないのが敬老精神を大切にする儒教社会だろが、それに安住したらそのまま汚く臭いおじいさんだ。老は受容しなければならない。けれど、一切構わないと居直ることでもない。老であっても格好よくあるためには大きな努力が必要だ。努力の主眼は自己に対する観察力と注意力に集約されると僕は思う。太って腹が出すぎていないかを観察し注意する。鼻毛が伸びていないかチェックする。散髪を欠かさない。肌の手入れをする。口角が垂れないように笑顔を絶やさないように心がける。毎日の観察と注意が老には求められる。目が薄くなっている。見落としが出る。だから鏡の前の照明を明るくする。老いたことを自覚して、ひとつひとつ老いた部分を観察しチェックして改善を図る。それが老を受容しながら老と付き合うことだろう。色々と試してみるとlこれがなかなかに面白い。努めてみればある程度の解決は図れるし、自分を見つめることは楽しいことだ。
2005年6月6日記

調整ダイエット

66.0キロになった。今夏ほど汗をたくさんかいた夏はなかった。散歩をし、ダンスを習い、サンバに参加した。毎日3枚のTシャツを洗濯に出した。汗をたくさんかいてスポーツをしたから、食べても大丈夫。ビールがむちゃんこ、うまい!!。脇が緩んだのだ。2004年4月に62.8キロだった体重(これが最小)は2005年6月までの2年間で64.8キロと極々緩やかに増加していた。この増加は筋肉トレーニングの筋肉増が主因の自然増であると判断して経過に任せていた。が、7月と8月とで一挙に1キロ以上増えて66キロになった。パンツのウエストがきつくなり腹のふくらみが目立ってきた。見た目にも自覚的にも「太った!」と実感した。特にサンバが終わった盆以降がいけなかった。サンバが終わり運動量が減ったのに、夕食にビールを飲み続けていた。8月31日の早朝計測で66.0キロを確認して9月1日からダイエットに入る決心をした。調整ダイエットと命名した。目標は2ヶ月後(10月31日)に59.9キロ。調整ダイエットなのだから、元の体重の62.8キロを目標値にする策もあったのだが、それでは面白くない。28歳で60キロを越してから一度も戻ったことのない50キロ台の体重を、(死の前の衰弱ではなく)健康な自分でもう一度経験してみたい。無理はしない。とにかく62.8キロは必ず達成しよう。そうでないと「調整ダイエット成功!」とは言えない。9月1日より1日1200キロカロリーへ減食。これは前回と同じ。前回と大きく違う点が2つある。一つ目は散歩に替えて、ラインダンス体操(足を高く上げたり腰をひねる体操のこと。私の勝手な命名)やダンス練習の強化や自宅でのジムの強化(ダンベルを6キロから8キロに増量。腹筋を必ず毎日60回以上)をあてることであり、二つ目は大量の水を飲むこと。散歩もするのだが、これは楽しみであって、もはやダイエットの手段とは考えないことにした。前回と違って音楽イベントが目白押しなので、多くの時間を費やす散歩をする時間的余裕がないのだ。それに前回は洗濯板のようだった体に少しは筋肉がついた。強くした筋肉を大切にしたい。そう考えて毎朝1時間集中的な運動やトレーニングを始めた。二つ目の大量の水摂取にはふたつの理由がある。ひとつは満腹感を得るためで、食前に薄い砂糖水を飲み、少し時間を置いて大量の水を飲んでから食事を始める。砂糖水で血糖値が上がり、そののちに胃が水で充満するのでこれだけでかなりの満腹感が得られる。二つ目の理由は尿量を確保するためだ。今夏は生涯で一番にたくさんの汗をかいたのだが、水分の補充への心配りが足りなかった。尿量が極端に減り小便を熱く感じるほどに濃縮された尿になった。尿量が減ると老廃物の排泄が滞ることがあるので気をつけなければならない。「前回ダイエットをしたときも尿量は減っていた」と思い出した。総食事量が減るとともに摂取水分も少なくなっていたのだ。調整ダイエットを始めて9日目に身体のだるさ・重さを感じ始めた。「真のカロリー不足を脳が感じ始めた、即ち痩せ始めたのだ」とまずは考えたのだが、「ひょっとして脱水?。循環血液量の不足?」と思いついて水をたくさん飲んでみた。途端に身体が楽になり頭がすっきりと冴えた。それで先の理由を後付けにして、大量の水を飲み始めた。身体がしっとりした感じになって体重は1日で1キロ増えた。全身の細胞内に水が入り込んだのだろう。それから1週間体重はあまり減らなくなってしまったが、腹回りの脂肪が減っているという実感があり、一方で身体はますますしっとりしてきていたので、焦りはなかった。水を飲みだして1週間後の15日と16日の2日間でトントンと1キロ強、体重が減った。これまでのところ、さほど空腹感に悩まされることもなく、また仕事に悪影響を及ぼすような気力・体力の衰弱も なく、16日間で3.6キロ減は上々の結果だと思う。調整ダイエットは成功していると喜んでいる(以上9月16日記)。
16日に62.4キロになって「2週間でほぼ4キロの減量を達成した」と喜んでいたが、意志の弱さか、それとも急激な減量の無理か、17日から4日間1400カロリーでは我慢できなくなり、2000カロリーを超える摂食を続けた。結果は正直で21日には64.8キロまで戻ってしまった。とは言え、たった5日で2キロも太るはずは なく、64.0キロあたりがこの頃の真の体重だと考えている。1ヶ月で2キロの減量だから、まあまあの成果だろう。10月もダイエットを続けて更に2キロの減量を目指すことにした。
とりあえず4週間の体重の経過を表にしてみました。10月31日まで随時追加更新します。

31 9月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
体重 66.0 Kg 65.6 64.2 65.2 64.4 64.6 63.8 63.8 63.6 63.0 64.0 63.6 64.4 63.8 63.6 63.2
9月 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
体重 Kg 62.4 63.4 63.2 63.6 64.6 64.8 64.0 64.2 63.2 63.6 64.0 64.0 63.8 64.0 62.8
10月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
体重 Kg 63.2 64.0 64.2 64.6 64.4 63.8 63.6 64.6 64.0 64.2 64.6 64.6 64.4 64.0 63.6
10月 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
体重 Kg 63.6 64.4 64.0 64.2 64.0 63.4 64.0 64.6 64.4 64.4 65.0 65.0 64.8 64.4 64.6 65.2
2005年10月1日記

肩こりと早朝体操

20年間、強力で頑固な肩凝りを治めるために週に1回は按摩に通っていました。なにしろ私の肩凝りは年季が入っていて、年に1〜2回は首の捻挫状態になって激痛が走るし、実際頚椎症で手が痺れた時期もあったしで、生涯の病だと信じていました。按摩は気持ちがよく、一時的には楽になるのですが、筋肉を押さえることで慢性的に筋繊維を傷めているとも感じていました。その按摩通いをやめる決心をして、2003年3月から毎日起床後30分ほどラジオ体操や自己流のストレッチ体操を始めました。当初は体操をしている途中で肩の筋肉を傷めたり、かえって首が引きつって動かなくなったりしていましたが、3ヶ月を越す頃から徐々に肩・首の痛みが和らいできました。ダイエットを始めた同年11月頃には、相変わらず肩凝り感はあったのですが、按摩には通わなくなっていました。ダイエットを始めると同時にダンス教室に通い始め、HPで「ダンスのためのストレッチ体操」と言うのを見つけて、ダンスの練習と体操に毎朝1時間取り組みました。当初はとても硬い身体だったのですが、だんだんと身体が軽くなるのを感じました。慎重にゆっくりとストレッチを進めて、ダイエットが終わった3月にはずいぶんと柔軟性のある身体になりました。同時に肩凝りもぐ〜んと軽くなったのです。が、残念なことに毎朝起床したときは肩凝りが戻っているのです。特に散歩をした翌日などに肩凝りがひどくなりました。運動をすると翌朝肩凝りをしているのです。肩の筋肉の弱さと繊維化を感じていました。2004年4月からジムを始めました。初日いきなり肩の後ろの筋肉を強化する器具に座らされました(ディップ・マッスル・バック)。恐る恐る引っ張ってみると、使う筋肉はまさにいつも激痛が走る筋肉そのものでした。筋肉を傷つけそうで、とても怖かったです。本当に本当にソロソロと強化を始めました。女性初心者よりも軽い加重(20キロ)で1日たったの8回です。最初の1ヶ月はその程度にとどめました。その後幸い一度も筋肉を傷めることなく徐々に加重を増やすことが出来て、現在では80キロ60回です。相変わらず男としては虚弱ですが、始めた当初からするとずいぶんと強くなったのですよ。肩の筋肉が大きくなるにつれ肩凝りは軽くなりました。起床したときの肩凝りも感じることがなくなりました。2時間程度の散歩では肩凝りはしません。それでもダンスの練習の後は肩が凝ります。結局のところ、身体を支える筋肉が弱い・不足した後に肩凝り(要するに筋肉痛・筋肉疲労)を感じるのだろうと考えています。まだまだ肩凝りから卒業できたとは言えませんが、肩凝りを解消する方法は見つかりました。これからも工夫をしながら肩凝りと相対していきたいと思っています。
2005年9月20記


街区公園を巡る

 出不精なのです。10年前に母と長江の川下りクルージングに行って以来、仕事上の職務でなければ遠隔地に出かけたことがありません。連休に出かければ人込みに巻き込まれます。慌しい移動が求められます。旅行は大きな出費です。ジャズピアノに夢中になってからは、長期の休暇はピアノの集中練習に最適で必須の大切な時間でした。などなど、10年間、正月もゴールデンウィークも秋の連休も、全く旅行に出かけませんでした。
 「おいでや!ジャズストリート2007」が終わった2007年2月に「近郊の観光をしてみよう」と思い立ちました。「格好よいおじいさん」になるためには、ジャズピアノだけではなく、新しい知識や新鮮な感性を蓄積したおじいさんである必要があります。見知らぬ地に身を置くことは、きっと新しい自分を創くるのに役立ちます。
 40代になってから車の運転が嫌いになりました。祝日や日曜日の道は停滞してストレスになります。JRや電車を使おう。思い立ってHPを探すと、近頃は市町村の「町興し」のPRも盛んですし、色々と工夫もしているようです。「まずは近場から」とJRで二駅目の北伊予駅で降りてみました。HPでピックアップした名所らしきところを4時間をかけて歩き巡って、その楽しさを知りました。3月下旬までに3度同じようなヴォーキングをしてみました。とても楽しかったのですが、困ったのは「目的を探すのが思いのほか難しいこと」でした。超有名な名所はたちまち行き尽くすでしょうし、「自家用車を使わないで電車やJRの駅からで歩ける距離」となると、割かし対象となる目的地は見つからないのです。いままで「自分の地域の名所や旧跡などに一切興味をもってこなかった」のがたたって、私自身が知識不足なのです。「この楽しい思い付きを続けるにはどうすれば良いだろう」と少々困惑していたときに、HPで出会ったのが「こたろう博物学研究所の公園に行こう!」でした。http://www33.ocn.ne.jp/~kotaro_mil/index.html
 「こたろう博物学研究所ー伊予の隅々マップー」は伊予の地の旧跡や史跡を網羅した最高に秀逸なHPです。このHPに初めて出会ったとき、あまりの壮大さに呆然するほどでした。「こたろう博物学研究所のHPの指南に従って伊予の地を巡って行けば良い」と解決策を見つけて大きな安堵を得ました。で、「こたろう博物学研究所ー伊予の隅々マップー」を詳読するうちに、「公園に関する雑学」のページに行き当たりました。行政が管理する公園には総合公園や風致公園や広域公園などの行政区別あり、そのうちの街区(がいく)公園は「公園を中心に半径(はんけい)250m以内に住んでいる人が主に利用する公園で、0.25ha(ヘクタール)の面積を目安に配置」と記されている」と言う説明です。そして彼が巡った公園の記録が載っています。http://www33.ocn.ne.jp/~kotaro_mil/iyosumi/theme/kouen/matsukin.htm。
 花見のシーズンだったので、早速4月2日早朝に久万ノ台の公園に行きました。小さな公園でしたが、桜が咲き、近所の人たちが花見の準備をしていました。展望台があり、三津方面の様子が見渡せました。初めて見る松山の景観でした。ワクワクしました。高台を降りて三津の町を歩きながら人づてに公園を探して、西須賀公園を見つけました。この公園が私が意識して見た最初の街区公園でした(久万ノ台公園は風致公園)。この時点ではまだ「街区公園を全て回ってみよう」と言う考えはなかったので、写真も撮らず帰りました。
 帰ってから街区公園について調べました。松山市のHPに松山市の街区公園の一覧が見つかりました。平成の大合併以前の旧松山市に177公園です(新松山市に23公園)。住宅地図を買ってきて、ひとつひとつ地図で探しました。見つからない公園があって困りました。市役所の友人に尋ねて、街区公園が一覧になった地図を手に入れました。この地図は”大まか”でしたが、確信をもってその辺りの住宅地図を探すことが出来て、大いに助かりました。一部の公園は未完成(計画のみで手付かず)や名前の変更があり、また高架下の公園は住宅地図上では表記がないものもありましたが、最終的には177公園の全てを見つけることが出来ました。
 ひととおりの予備知識と準備を得て、「公共交通と徒歩だけで松山市の街区公園巡る自分企画の実行」を決心しました。2007年5月の連休は毎朝8時前に家を出て、昼過ぎまで公園を巡って歩きました。あまりの楽しさに朝起床したときからワクワクと胸が高鳴っていました。すること、見るもの全てが新鮮に思えました。「新しい恋をしたときってこんな感じだったかも」って思い出しました。けれど思いのほか疲れもしました。初めて乗るバス路線は乗場を探すのにも気が疲れますし、時刻表も頭に入っていません。地図の見方にも慣れません。「空腹になればコンビニで弁当を買おう」と思っていたら、田舎道にはコンビニはありません。「コンビニは何処にでもある」と思っていた自分を責めながら空腹をかかえて3時間を歩く羽目になりました。このときの経験から出発前に”おにぎり”を買っておくのが習慣になりました。公園で食べる”おにぎり”はとてもおいしいのです。
 「街区公園を巡る」と言う思い付きで、「いちいち行く先を考える必要」がなくなりました。週末が近づくと、「今週はどの地区の公園をどういう順番で回ろうか」と考えるのが楽しみになりました。3時間程度で回れるように計画するのです。乗るべきバスや電車の路線名や時刻表を前調べします。路線や停留所名を覚えるのも楽しいのです。最終的には市内の全バス路線に乗りましたし、郊外電車の全ての駅で乗降しました。
 「ひとつの町にひとつの公園」、私たちの最も身近にある公園が街区公園です。街区公園は元々由緒や観光資源があるわけではなく、数も多いので、平均一律化して没個性になりがちです。けれどよくよく観察すると、それぞれ公園の地域性やコンセプトや工夫を感じとることが出来ます。街区公園には「災害時の仮設住宅用地としての意味合い」もあるらしいのです。「災害避難だけが目的のような無機質な土の公園」もあれば、緑や花が溢れていて普段から住民に愛用されていそうな温かで元気な公園もあります。公園が出来た経緯や慕われ様などをいろいろと想像してみるのも、公園巡りの楽しみの一つでした。
 偶然だったのですが、公園めぐりを始めた4月から6月初旬までが1年で一番ヴォーキングに適した時節でした。明るくなり始めた6時頃から準備を始めて、7時過ぎにスタートして11時に帰宅します。日曜・祝日の10時以前は交通量がとても少ないので車に気遣うことなく、エンジン音や騒音のない静かな空気を満喫できて、最高の気持ちよさです。6月下旬になると8時を過ぎると日差しがきついので(快適さを求めるならば)6時にはヴィーキングを開始して、9時には終了したいところです。次項で述べますが、老化が始まった肌には紫外線は最大の敵です。7月中旬以降は6時でも暑いですし、8時には30度を越します。電車の始発は6時00分、バスは7時00分頃からが多いので、早朝に移行しようと思っても難しいのです。暑さにもめげず続けていましたが、お盆頃にバテて以降9月中旬まで休憩しました。9月下旬から11月終わりまでは快適でした。冬場の12月から2月までは朝は寒いので避けて、10時から2時までがチャンスです。3時を過ぎると急に寒くなるので要注意です。とは言え、冬はたとえ1時でも、木枯らしが吹きすさぶ山際の田園地帯では凍えました。などなど、いささか軟弱ですが、こんな感じで季節感を知ることも出来ました。
 街区公園は「ひとつのまちにひとつ」が原則なので、全ての街区公園を巡ると自然に松山市全域の町を見て歩くことが出来ました。松山に生まれて57年になりますが、初めて松山を知り始めた思いでした。あちこちの町で出会う小野川や宮前川を渡るとき、川に寄り添った人と土地との永い営みを思い描き、点在する杜で手を合わせて祈るとき、町村の人々が連ねてきた命の営みを偲びました。古くからの松山、どんどん発展する松山、新しく目にする松山。自分の生まれ育った町を知ることは素晴らしい楽しみでした。地図を片手に、バス・電車とウォーキングとおにぎりで楽しむ4時間の小旅行です。週末の楽しみとして1年3ヶ月を胸躍らせながら過ごしました。いよいよあと1公園で旧市内の177公園を巡り終えます。楽しかった。「自分の思いつき」と、ヒントを与えてくれた「こたろう博物学研究所」の執筆者に感謝します。次は新市内の街区公園を巡るか、少し足を伸ばして県内の観光名所を巡るか、市内の史跡や旧跡を巡るか、迷っています。幸い、市内をあちこち歩いたので、おおまかな市内の土地勘を得ることが出来ました。地図や時刻表にもだいぶん慣れました。猛暑が続く夏が終わったら、新しい楽しみを始めたいと思いを巡らせています。
2008年7月28記

シミとしわ

 2008年のゴールデンウィークは4日しかないショボイ連休だった。加えて連休最終日にジャズストリートへの出演があったので、今回はもっぱらピアノ練習にあてることになった。最近5年間は11月初めの連休に次年のアイデアを思いつき、準備と計画期間をおいて、3月中旬から5月のゴールデンウィーク終了までに実行に移るのだが、今年はまだ何も思い浮んでいない。昨年2007年は「公園巡り」を思いついて胸が高鳴っていた。2006年は作詞作曲に必死だったし、同時に「アコースティックなジャズをする」と決心して、それが後にJazzSOLA結成と言う結実を得た。2005年は2004年に実行したダイエットと禁煙のエキセントリックな作業が終了して、リバウンドに気遣いながら、「ひまわり」の活動を中心に音楽イベントや職域の会への復活を目指して多忙にしていた。今年は「気分に張りがない」と情けなく思っていた。
 最近目の下の皺が深くなった。下眼瞼の下2センチのところに、はっきりと段が出来てきて、その下の皮膚が垂れている。口角が下がり鼻翼(小鼻)からのラインが深くハッキリしてきた。両頬に2センチくらいの薄い黒ずみが見えてきた。顔全体も黄黒な感じだ。「くすんでいる」とはこのことだろう。歳をとることは重々承知していたが、覚悟以上の激変だ。心がすさむ。そう言えば同級生達も同じ顔をしている。「60歳を越すと急に老人顔になる」と以前から思っていた。60歳はゼッタイに老人なのだ。長生きとは人生全体が満遍なく伸びるのではない。長生きになっても幼年期が長くなるワケはなく、また思春期が15歳頃に終了することも変わらない。医学と環境の改善で、55歳だった壮年期の終了が60歳程度にまでは延びたかもしれないが、「老人は65歳からだ」などと言う強弁は生物学的に通用しない。長生きとは「老人が長くなる」ことだろう。
 連休中に飲み会があり、友人の皮膚科医と同席したときに、自分のシミと皺とについて自嘲的に語ってみた。すると「年齢もあるだろうが、紫外線だ。ヴォーキングをしているだろう。紫外線対策をしているか?」と問われた。そう言えば、公園巡りのヴォーキングを半年間終えた昨年末からシミと皺が目立ち始めた。「シミは分かるが、皺も紫外線か?」と問うと、「そうだ。皮膚のダメージが皮膚の保水性を劣らしめて弾性を失ない皺となるのだ」と答える。
 「世の女性たちを見よ!」と皮膚科医は続ける。「この数年で日本の女性たちには紫外線対策の重要性が完璧の浸達した。若い男たちにも伝わり始めた。オヤジと老男達だけが情報を受け取っていないのだ」と言う。翌日から”その眼”で町行く女性たちを見た。驚いた。見事なものだ。バイクに乗る女性は黒の長袖のシャツで手首まですっぽりと覆っている。歩く女性たちは老若を問わず、黒の日傘をさし、黒のツバ広の帽子を目深にかぶっている。半袖で無帽で歩いているのは年配の男達だけなのだ。そしてその男たちの両頬には大きな真っ黒なシミが「それが老男のオヤクソク」と言うかのごとくに見事に張り付き、眼の下には割れた岩盤のごとくの深い皺が刻まれている。黒々としたシミと深い皺の顔は老男の勲章なのだろうか?。自分のシミと皺の多い顔が好きなのならばそれも良いだろう。私は好きではない。皮膚科医は「深い皺と大きなシミは、男の味などではなく、劣悪化した皮膚の証左である」と言う。
 「それならば・・」と「シミと皺対策」を実行してみることにした。「シミと皺対策」を始めると言っても、世間的に言えば、なにひとつ新しいことをするわけではない。「世の多くの女性たちが当たり前に実行していることを後期中年男(57歳)がする」と言うだけのことだ。10年を超えてシミと皺対策をしているベテラン女性たちはたくさんいる。彼女たちから謙虚に学ぼう。だが、とりあえず基本対策の5本柱は皮膚科医の指導を受けた。@紫外線対策Aシミ消し塗布薬BビタミンDクリームの塗布C皮膚の保水性を高める塗布クリームDビタミンCの大量摂取だ。その対策の中心でかつ間違いなく効果が期待できるのは@の紫外線対策らしい。紫外線対策は1)起床時洗顔後に直ちに紫外線カットクリームを塗る習慣をつける(1年中続ける)2)紫外線遮断の帽子や服を着る3)紫外線の被爆量を減らすためのあらゆる注意をする。などだ。「いま5月から7月は紫外線が最も強い時期なので紫外線への配慮を徹底する。そして秋以降も油断せずに紫外線対策を続けることが必要だ。皮膚老化対策として有効性を確信できるのは紫外線対策のみなのだから・・」と皮膚科医から説かれた。効果判定は1年後だそうだ。ふむふむ。
 さて、ジャズストリートが終わった5月7日から「シミ&皺」対策を開始した。顔に塗る紫外線カットのクリームとシミ取液薬、保水性を高める就寝前塗布のクリーム、ビタミンDクリーム、そして内服のビタミンCと消炎酵素剤は皮膚科医から処方してもらった。黒の帽子や日傘など紫外線グッズはマーケットで購入した。天気予報での「紫外線予報」も聞き逃さず、紫外線最強の日は昼休みに出来る限り出かけなくても良い様に準備し、夏場のヴォーキングは日暮れてからとする。「顔に何かを塗る」と言う行為自体が初体験だ。最初日はいきなり眼の中にクリームが入って狼狽した。大量に付け過ぎたのだ。伸ばせば伸ばすほどに、どんどん広がって眼瞼の中まで広がってしまった。塗りムラが出て顔に縞が出来る。クリームを落とそうとして、顔を洗うときに強く擦すると皮膚の表面がカサついて痛みが出てくる。などなど、化粧の初歩的な失敗で57歳のジジイが苦労をしている。結構時間もかかる。朝5分、夜は3種類もあるので10分はかかる。だいたい顔にクリームを塗ると暑苦しい。「こんなに暑いものなのか」と女性たちに同情し、そして「こんなに暑苦しい思いをしてまで綺麗に化粧してくれる彼女たちへの感謝の気持ち」がふつふつと沸き起こってくる。(注:自分が化粧したい気持ちは全く起こらない)。
 皮膚科の指導の基本柱を実践した上で、私なりの勝手な方法で「顔の運動」をしてみている。指南書に「顔のマッサージ法」が書いてあったが、マッサージはうまく出来ない。皮膚をこすると皮膚が痛んで、うっとうしいし時間もかかる。長時間顔マッサージすると肩が凝る。で、顔をクシャクシャにして、運動してみることにした。表情筋運動だ。表情筋の解剖と走行は知っているので、運動は適当でよいだろう。朝晩、10分間づつ続けている。「顔のこわばり感」がなくなってきたように思う。皺がとれなくても、表情筋の動きが自由になって表情が豊かになれば、それはまた別な面で素晴らしいことだ。
 私の仕事はオフィス内だけだし、ゴルフや野外スポーツの趣味もないので、人生での総紫外線被爆線量は少ない。シミや皺に関しては恵まれた環境だろう。24歳のときに沖縄で20日のレジャー滞在をした。このときの日焼けが凄まじくて、帰ってから顔の皮膚が2回剥がれて、その後も2年間は皮膚がポロポロと剥げれていた。結局眼の下と鼻の先に黒いシミが残った。そのシミは30代は薄かったが、40代半ばからハッキリと目立ち始めた。目の下のシミは3年前に友人の皮膚科医に電気照灼してもらい、一部のシミとクスミはレーザーで薄くして、ずいぶんと見かけはよくなっていた。だから今回のシミと皺は”いよいよ始まった老化の明確化・顕在化”と”1年間の紫外線暴露による急激にメラニン活性が促進された結果だ”と考えている。
 さて、シミと皺対策3ヶ月間の結果だが、「まあまあの良い効果を得ている」とヒトリゴチている。両頬のシミは、よく見れば明らかに2センチ径楕円形のシミ(僕はこれを老人のオヤクソクと呼んでいる)が浮き上がって見えるのだが、確かに3ヶ月前よりは薄くなったと思える。顔全体に日焼け感がなくなって白くなり、同時に「顔全体のくすみ」も薄くなった。肌に張りが戻ってきて、眼の下と鼻の横の皺は浅くなった(と思う)。もちろん老人顔であることに変わりはなく、「公園巡りヴォーキングの前の昨年2007年5月の状態に戻ったかどうか」と言う程度だろう。でもそれは素晴らしいことだ。1年1年歳をとる。これからは「1年前と同じならば、1年分勝利した」と言えるだろう。容貌の変化が顕著化する。それが60歳だ。そのことを人類は長い経験の中で知っていて、60歳を還暦として区切って、60歳以降をオジイサンと呼ぶ。干支の数字合わせだけではない。
 Antiagent Therapy(抗加齢医療)は、戦後の長寿目的の医療の成功のあとに続く、健康な老人を長く維持管理する医療として重要視されてきている。Antiagent Therapyは不老不死の願望と繋がりやすく、その定義についてもまだ論議がある。でも、難しく考えないで、ちょっとだけ若く、もし「5歳若く見えたら嬉しいな」と努めることを楽しめたら、老いた人生にハリが出るかもしれない。老いて、「他人との”どっちが若いか競争”」とはなんとも浅薄で幼稚ではあるが、高尚にあるより低俗なほうが快達な楽しみ方である場合も少なくない。2008年の「1年の計」としては情けないが、1年後の自分をちょっぴり楽しみにして、「ジジイのシミと皺対策」を続けてみるつもりだ。

追伸:「シミと皺対策をしている女性たちはいっぱいいる」と言うより、大なり小なり、「女性のほぼ全員がシミ&皺対策者である」と言ってよいと思います。一方でシミ&皺対策に取り組んでいる老男は少数です。競争者がいないのですから、効果があがれば一挙に「見た目に格好よいおじいさん=勝利者」になれるハズなのです。「ひとを出し抜く」のは、オヤジのささやかな楽しみです。


追伸:「40年前に黒ンボ大会で優勝した」と言う、現在はシミ退治熱烈実行ベテラン女性が、「あれはナンだったのか!」と真顔で怒っていました。時代は変わるのですね。
2008年7月28記
「若く見せる」と言うこと その1

 「若いですね」と言われて、嬉しくなるのはのは何歳からだろうか?。女性の場合は「30歳からは無条件に頬が緩む」だと言う。男の場合は個人差が大きいだろう。私は30歳で「若い」と言われたら、「人生経験も蓄積も不足との叱責だ」と感じる。

5歳若いひとと競っているのだろうか?。5歳若返ったら5歳年下のひとと対等に勝負が出来るから嬉しいのだろうか?。そうではなくて、5歳年上の自分が5歳年下の男と同じ年齢に見えれば、「勝てる!」と言う確信のようなものが、心に潜むのだ。そう、「現在より5歳若い自分と競っている」と考えてみればどうだろう。

10歳若い。5歳若い。服装は10歳若く。オヤジが学生時代の服装をするのは陳腐。知性の不足を感じる。
2008年7月28記